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ざあざあざあ。
ざあざあざあざあざあざあ。
鼓膜を震わせる雨音と、長い逃走のさなかにボロ布のようになった衣服に染み込む泥水の冷たさと、背中を預けた木のごつごつした感覚だけが身体を支配している。
布で圧迫してなんとかごまかしていた傷口から染み出た血液が熱い。追っ手はこれまでに七人仕留めた。ナイフはまだあったが、投げる相手は見当たらなかった。昨夜のうちに国境は越えたような気がしている。最後の最後に負った傷は思ったよりも深手のようだ。身を浸すのは、自分は死ぬのだというぼんやりした確信。かれは虚空を見上げたままで、いままで自分のしてきたことを、思い出す。
涙すら出なくなったのはいつからだったか。友と呼べた存在を見殺しにした頃だったか。仲間と呼べる存在を粛正した時だったか。自分という存在を、忘れた時だろうか。

「…大丈夫か?」

雨の音が、遮られた。それと一緒に、走馬灯のようにきらめいていた血塗られた記憶の奔流が止まる。
差しかけられた傘をぼんやりと見上げる。金色のものが闇の中でうっすらと見える。その手に下げたランプに、青年の顔が照らされている。それを視認した上で、咄嗟に握ったナイフを、かれは抜こうとした。抜こうとして、それから、ここがもうあの場所ではないことを思い出した。それからもう、腕に力が残っていないことに気づいて、少しだけ笑った。

「名前は、わかるか?家は?」

かれは雨が体に当たらなくなると、自分は凍えているのだということに気づいた。寒かった。

緩慢に首を振る。目の前にしゃがんだ青年の顔が、困ったように細められた。記憶障害か、頭を打ったのか、などと、かれはつぶやいたようだった。
その瞳は美しかった。目の前の血まみれの男のことを、ひとだと思っている瞳だった。その瞳を、かれは美しいと思った。そんな感情を抱いたのは、いつぶりだろうか。

「とにかくうちにおいで。手当をしなくては」
「…」

あ、とか、う、とか、そういったようなうめき声が、その喉を漏れた。もういいんだ。俺はひとではなく、兵器であり、それを辞めたくて、できなくて、死ぬのだ。それは、確定したことだった。

「肩を貸すから、立てるか?傷が痛むだろうが、我慢をして。すぐそこだから」

しかし金色の髪はかれのほおに触れるほどに近づいた。それから躊躇わず、その腕がぐっしょりと血に、…自分と、そして同胞の血にまみれた背中に回った。無理やりに引き起こされる。すると不思議なもので、かれの足はまるで自分の意思を無視して立ち上がった。歩き出した。肩に雨は当たらない。滲み出る血が熱い。傘に当たる雨音が煩い。体を支えるなにか、いや、だれか、が、熱い。

「頑張って、もう少しだから」

かれを励ます声は優しかった。それを聞き、自分は死ぬのだと思っていたのが嘘のように、かれの足は泥濘を踏んでまっすぐに進んだ。

「…おまえは、」

なんなんだ。
それはかれの、心の叫びだった。なぜ、死にかけたおのれに手を延べた。なぜ、死なせてくれなかった。なぜ。

なぜ俺を、ひとのように扱うのだ。

「…私の名前か? ミシェルだ」

そうしてかれは、その名を知った。それは名だった。かれはとうに、おのれの名など忘れていた。あの場所で名前は、必要ではなかった。だから忘れた。かれは人間ではなかったから。けれど。

「俺は…K、Kだ」

名だったものが、掠れて飢えた喉を滑った。呼んで欲しかった。ひとみたいに。名前を。

ひとになりたかった。
だからあの場所から逃げ出した。そんなことを、思い出した。そう遠くないむこうに、大きな屋敷が見える。

「…ケイか。…わかった、ケイ、もう少しの辛抱だからな」

かれの口から、名が呼ばれた。それはかれの、識別コードKの、名前だった。かれの横顔を窺ったミシェルは、かれを励ますように微笑んで、そして背中を支えてくれた。かれの歩き出す足は震えていた。かれの魂のように。震えていた、いつの間にか瞳のはしから涙が溢れ、滴り、ほおを刹那温めたことに、かれは気づいた。

ひとみたいだ、と、思った。




「私はな、ケイ。この屋敷を離れたことがないんだ。だから、ずっと退屈だった。話し相手が欲しかった」

屋敷の人々は、突然ミシェルが連れてきた得体のしれない血まみれの男を、それでも親切に介抱してくれた。腹の傷には薬が塗られ、痛み止めの注射を打たれた。冷え切った血塗れの身体は清められ、温められた。暖かい寝台に寝かされたKの枕元には、ミシェルが座っている。かれは部屋を訪れた老人となにか言葉を交わしてからずっと、Kの様子をみてくれていた。天井の灯りはほのかな橙色に白を染め上げ、雨の音は最早遠い。

ミシェル、と、Kの頭は何度も何度もその名を反芻している。それはいままで叩き込まれたどんな暗殺の所作より、規則より、犯してきた殺人の光景より、頭の深い深いところに刻み込まれていた。ミシェル。…あの場所の外の世界の名は、それだった。

「行くところがないのなら、記憶が戻って帰る場所がわかるまででもいい、この屋敷で働かないか。そうしてたまに、私の話し相手になってくれたら、私はとても嬉しいよ」

その言葉を聞いて、Kはなにも考えずに頷いていた。かれが、嬉しい。それはひどく素晴らしいことに、Kには思えた。もとよりKには、帰る場所も、覚えておくべき記憶もない。いまあるのは、目の前の青年への、名前すら知らない魂が打ち震える感覚だけだった。

「ほんとうに?…ありがとう、よろしく、ケイ」

ミシェルの手が、Kのそれを強く握った。ミシェルが笑う。それを見て、Kは、自らの選択が間違っていないことを確認した。かれが笑う。それは素晴らしいことだった。

その瞬間から、Kはひとになった。ケイという名の、ミシェルのための、ひとになった。









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