main のコピー | ナノ
with age




時刻は零時をすこし回り、世界は夜の闇の中でしんと静寂を保っていたが、大公邸の或人の部屋には明かりが灯り、かれが一心不乱にペンを走らす音だけが響いていた。山の国の襲撃を受けたこの街の復興のために必要な書類に目を通し、サインをし、しかるべき場所に回す。それがかれの仕事だった。

かれの騎士は今も騎士団を指揮して街の主要施設の復興の援助や、崩落した国境の壁の修復に当たっていることだろう。

だから本来ならば、或人は警戒をしなければならなかった。まだ襲撃のあとを色濃く残す、かろうじて無事な幾つかの部屋でなんとか職務を果たしているこの大公邸のなかであるならなおさら。例えばいきなりノックもなしに扉が開いたら、或人は剣を抜かねばならなかった。父も襲撃で負傷し、その負傷をおして帝都での大公会議のために東の街を空けているなか、或人は最高責任者であるのだから。

しかし、かれはそれをしようとはしなかった。或人は忙しかったからだ。

「うわ、めんどくさ。こんなにあんの。サイン手伝ってやろっか」
「阿呆か」

人影は音を立てずに扉を閉めると、或人が仕事をする机のそばまでまっすぐ歩み寄ってきた。書類から顔を上げることもなく、或人はばっさりと闖入者の言葉を切り捨てる。かれはそれもそうか、と小さく笑うと、机のはしに腰掛けた。

「どうした、竜司」

或人はそれ以上闖入者になにかいうことをせず、黙ってそう尋ねた。東の大公候補と北の大公の落胤、二人はそれなりに複雑な間柄ではあったが、昔からの知り合いだ。真面目な或人にしては珍しく、悪友でもある。こんな場合でなければ酒の一つも飲み交わすのだか今はそれどころではない。それを分かっている竜司もまた、珍しく酒を持ってはいないようだった。また腕にものを言わせて大公邸の厳しくなった警備を突破したのだろう。それは今更なので、いちいち或人も文句を言わない。文句は悟に任せてある。

「或人弟、良くなったみたいだよ。さっき森の国に戻ったみたいだから、報告」
「…そうか」

北の街は森の国との国境を有した。そういえば弟が戻ってきたことを教えてくれたのもこいつだったな、と思う。ひと段落した書類から顔を上げて、或人は大きく息を吐いた。

「…よかった。生きていてくれて、よかった」

森の国に「帰った」と言わなかったのは、竜司なりの優しさだろうか。或人はしばし瞑目する。襲撃の混乱が少し収まったころ或人は極秘裏に帝都に呼び出され、真琴から郁人が皇子を庇って死にかけたことを聞いた。命は助かったようだ、と言葉少なく彼女はいい、黙って或人に頭を下げた。あの場では、あなたの弟が動かなければ、凪様は死んでいた、といった。

或人は言葉も出なかった。郁人が死んでしまったら。そんなこと、考えてもみずにいた。郁人が死んでしまったら。永遠に或人は、かれに謝れなくなってしまう。かれに伝えられなくなってしまう。或人はいまもむかしも郁人をかけがえのない大切な弟だと思っている。たとえかれが、自分を恨んでいるとしても。けれど郁人は、そんなこと表情の端にも出さなかった。まるで或人の心情を見越したような言葉をよこし、或人に背を向け、駆けていった。……それが、或人が目にした最期のかれの姿になってしまったら?

郁人には、話したいことがたくさんあった。聞きたいことも。いまお前は幸福なのか。俺はそれなりに幸福でいる。お前に託されたこの街を、この国を、守りたいと思っている。

…それからしばらくの時間が流れていた。
じっと目を閉じる或人を、ほんの少し笑って眺めている竜司が小さく、よかったね、という。或人が一番望んでいた知らせを手に入れ、真夜中にもかかわらず北の街からここまで真っ直ぐ駆けてくるくらいには、竜司はこの友のことを大切にしている。自らの命にも執着がないかれにしては、ひどく珍しいことだ。

山の国のスパイたちの処分に追われて忙しいはずの中央騎士団に籍を置く竜司だが、相変わらず北の街にも顔を出していたことを、目を開けた或人はすこし笑った。出自を疎い家族を避けているくせに、なにやかにやと様子を気にしてしまう竜司のことを、かれは昔から知っている。

…森の国に戻った、ということは、歩けるようにはなったということだろう。手薄になっているはずの森の国との国境に、郁人を守るかれの騎士が手間取るとは思えなかった。

「傷も少しは、癒えたんだな」
「そーだね。腹を庇ってはいたけど、顔色も悪くなかったし」
「…凪様には?」
「姫から伝えてもらうよ」
「…ああ。少しは心痛が止むといいが」

竜司の口振りからすれば、かれは二人に会ったのだろう。弟の様子を聞いて安堵して、それから、睡眠もろくに取らずに各地へ指示を出し、軍部の再構築を図っている皇子を思う。かれのもとへは、まだこの国のどこかに居たらしい郁人から手紙がいったそうだ。内容までは聞いていないが、あの子のことだからきっと、凪を気遣ったのだと或人は勝手に思っている。かれは大切な弟だった。記録上は死んでしまっていても。自分の存在がかれを追い込んだのだとわかっていても。

或人にとっていつだって、郁人は自慢の弟だった。

安堵のあまり項垂れた或人の肩を、ぽんぽんと竜司が叩く。皇子の持つ中央騎士団の副団長といえども次期大公とは身分が違ったが、互いにそんな身分を得る前からの友であるから、遠慮もない。

けれど、かれは別だ。

静寂を保っていた部屋に突き刺さる殺気、と、律儀なノック。

「入れ」
「えっ或人ヒドイ!」

ノックの主が誰であるか知らない或人ではなかったが、あっさりと許可を出す。バタンと音を立てて開いた扉と共に、騎士の証の剣を抜いたかれの騎士が竜司に斬りかかるのも、知らないわけではなかったけれど。

机の端から飛び降りて刀を抜き合わせた竜司と悟の間で、目にも留まらぬ剣戟が交わされる。正直うるさかったが、襲撃によって破壊された自室のかわりに隣の部屋、かつては郁人の部屋だったそこで眠っているだろう妹が目を覚まさない限りそれでいいか、と思っている。

鈴音はあれ以来、すっかりと大人びたように或人には見えた。或人お兄ちゃん、と或人を呼んでいたのが、兄様、になった。まるで跡目争いが近付いて、郁人が或人のことを兄上、と呼び始めた時のようだと思ってすこしさみしくなった。…ああ、けれど、再会をした弟は変わらず或人を、兄さんと呼んでくれたっけ。

「センパイ、マジ怖い!いま俺或人と大事な話してたんだけど!」
「ならば正式な手続きを踏め!ただでさえ人数が足りていないのに、三人も気絶させやがって!」

相変わらず乱暴な手段でここまで侵入したらしい竜司に、悟は相当怒っているようだ。いつものことだが。頼むから何も壊してくれるなよ、と思いながらも口には出さず、或人はかれの騎士に呼びかけた。

「郁人と洸が、森の国に戻ったそうだ」
「…そうだったんですか。で、お前のところのやつらはあの馬鹿を取り逃がしたわけだな…!」
「ちょ、それ完全とばっちりじゃん!あんたの弟が悪いじゃん!」

騎士学校にいた頃から、いちいちこいつは目障りだった、と悟は思い出す。センパイ或人元気?などと言いながら幾度となく斬りかかられた記憶がある。弟にも同じような態度をとっていたようだったから、兄弟してこの男にはほとほと手を焼いていた。この戦闘狂と大事な主人に接点があるなど考えたくもなかったが、城で行われたパーティで知り合った、と言われては、悟にはどうしようもない。

「あいつだってこのクッソ忙しい中五人も病院送りにさせやがってくださったんだけどなあ…!」
「知るか!」
「弟の尻拭いくらいしてよ!」

竜司は竜司で、先の政変の際に面白い相手を見つけたらしい。郁人弟の友達みたいだよ、とこの間城で会ったときに言われたが、心当たりはこの街を救ってくれた温厚そうな白い髪の青年しかいなかった。確かに常人離れした身体能力ではあったが、この馬鹿を満足させるような戦闘狂には見えなかったのだけど。騎士にもういい悟、と呼びかけることをせずに、或人は思う。

「マジ洸のこと姫に報告する俺の身にもなって!」

相変わらずかれは強いのだろうか、と思う。
かれ…、洸の剣の腕は無論、兄と同じように、この街一番の騎士であったかれの父の血を色濃く感じさせるものであった。それ以上のものがかれにはあった。跡目争いが表面化したころ、或人はいつも、かれの剣は躊躇いなくおのれを斬るだろうと思っていたし、それは事実であったろう。かれは、その身の裡に獣を飼っている。あの獣を飼い慣らせるのは、郁人だけだろう。洸本人でも制御できないほどのそれだ。

真琴から言葉少なく聞き及んでいるが、政変の際に派手に城の一部を爆破したのは洸であるらしかった。修繕費が請求されるのかと一瞬背筋が冷えたが、そんなことはなかったけれど。かの騎士は、目の前で青筋をたてている悟の弟とは到底思えないような、そんな腕白な騎士であったが、郁人のまたとない友だった。その刃であり、盾だった。かれが郁人を連れて出奔したのなら追うことは無理だろう、と、その知らせに茫然としながら或人は思ったものだ。その予感はいまも変わらない。再会したかれは、相も変わらずその翡翠の瞳の奥に、燃え盛る焔のような激情を抱いていた。

「悟、もういい。鈴音が起きる」
「…はい」

不承不承、といった風に悟は剣を引いた。竜司もそれに倣い剣を鞘に戻し、それから、ちょっとだけ笑う。なんだかんだ言って悟と手合わせをするのを竜司が楽しんでいることを長い付き合いで或人は知っていたが、それを悟に言ったら血を見そうだったから黙っている。

「国境付近の見張り台、今週中には完成しそうです」
「そうか。…遅くまでご苦労だったな」

次に弟が帰って来るときまでに、街は復興を遂げているだろうか。弟が愛したとおり、美しさを取り戻しているだろうか。そんなことを思う。悟はどこか遠い目をして、窓の外を見つめている。かれなりにかれは長男として二人の弟を愛していることは知っていたが、かれは素直でないのでそれを素直に態度に出せないのだと思う。…まあ、この間洸と切り結んでいたときは、間違いなく本気だったけど。

「じゃあまたね、或人、センパイ。今度はゆっくり呑もうぜ。無理しすぎんなよ」

竜司はそう笑って、ひらりと手を振った。お前もな、と声をかけ、それから小声で無理をするのが無理か、と付け加える。何それヒドイ!と非難めいた声が飛んできて、悟がその通りです、というから、或人は弟の負傷を聞いて以来初めて、声をあげて笑った。









top main
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -