信号の向こうのノッポには、かなりの見覚えがあった。真面目ですって顔に書いてるような黒髪メガネ。でも目がすげえ優しいから、デカイやつにありがちな怖い感じはまったくない。

「…森くんじゃん!」

部活の後輩ってわけではないんだけど、個人的にすごく気に入っている後輩が森くんだった。そんな森くんも遅刻したらしい、と思ってすごく意外に思う。見た目通り森くんは真面目だ。図書局に入っていて、本の貸し出しとかをやっている。

森くんにとりあえず手を振る。森くんがメガネを持ち上げ、会釈したのが見えた。俺に気付いたらしい。俺は背が低いから、長身の人の視界になかなか入らないことがある。バスケ部だと、特にそうだ。それでも俺がバスケを続けているのは、ほとんど意地。信号が青に変わったから、俺は森くんのところに走っていく。バスはもう見えなくなっていた。

「おはようございます、先輩」

ちょっと屈むようにして俺に目線を合わせ、森くんはそう挨拶をしてくれた。めちゃくちゃ背が高い図書局の森くん(真面目)と、162センチバスケ部の俺(不真面目)。学年も違うし接点はほぼないけれど、俺は昔から本が好きなのでよく図書館にいくから知り合った。本棚の上のほうにある本が読みたくて、でも高校の図書館に足場はないから困った時、「委員さん、わるいけどあの本取って」なんてまるで女の子みたいなことを頼んだにも関わらず俺を笑ったりしないで、快く、そして軽々と本を取ってくれたのが森くんだった。


そしてその時に取ってもらった本が森くんの好きな作家で、俺もそれからその作家を好きになったから、俺の他に利用者のいない放課後の図書館でいろんな話をするようになった。森くんはいつも俺に目線を合わせて話してくれるから、すごくいい奴だ。バスケ部の後輩はデカイし怖い。むかつく。森くんはむかつかない。しかも今日は遅刻仲間だ。

「バス、行っちゃったな」
「遅刻確定ですね」

たしかこのバスを逃すと次は一時間後とかだったな。森くんは罰が悪そうに笑うと、いつものように指先で眼鏡を持ち上げてから道路を走る車を眺めた。どうしよう。チャリに乗れる天気じゃない。夜は雨が降ってたらしく、まだ地面はしっとり濡れてる。しかもいまにも崩れそうな曇天を考えると、リスクが高すぎる。学校まではバスで三十分。途中で雨に降られたら大惨事だ。歩いたら二時間くらいかかりそうだし。…なんで寝坊しちゃったかな、俺。あと森くん。

「寝坊か?森くん真面目そうなのに」
「…今日は、うっかりです。先輩はいつも?」
「俺だってうっかりだよ!俺だって真面目だし!」

まるで俺が遅刻常習犯みたいな言い方をするから、俺は森くんを見上げて必死に主張をした。ちょっとだけ笑って、森くんがすみません、という。いつもアホばっかり馬鹿騒ぎのバスケ部にいるから、この森くんの落ち着いた物腰はまじで後輩とは思えない。許してやることにして、ひとつため息をついた。とりあえず学校に行く手段が思いつかない。

「…どうしような」
「……どうしましょうね」

家が遠いし、バスもないし、俺は遅刻にはかなり気をつけていた。寝坊はしても、なんとかギリギリバスには間に合ってたんだけど。雨さえ降らなきゃ自転車に乗るから、遅刻するのは初めてだ。どうしていいかわかんない。学校に電話すんのかな。

「…三年間無遅刻めざしてたんだけどな」
「……先輩も遅刻初心者だったんですね」

案の定遅刻初心者な森くんが、ちょっと意外そうな顔をする。

「ん。もちろん森くんもだろ?」

森くんは黙ってうなづいて、困ったようにまたズレてない眼鏡を押し上げた。どうしよう。先輩風を吹かせたいところだが、あいにく俺にもアテがなく、しかも森くんのほうがよっぽど落ち着いてるしデカイ。

で、その落ち着いた森くんがバス停を凝視してるもんだから、俺はかれに尋ねてみた。

「次のバスは?」
「五分後に海の方に行くのが一本だけ。学校行きは、一時間後です」

時刻表を指でなぞり、森くんがそう答える。相変わらずさみしい時刻表だ。八時台のバスはさっき逃がしたのと、その二本だけ。もう間違いなく遅刻確定だね。ただでさえ曇天で憂鬱なのに。

「…遅刻、したくないんだけど」
「俺もです」

あーあ、やっちゃったな。一人だったらもっと落ち込んでただろうけど、さすがにそんな姿を森くんに見せたくなかったので、俺はかわりに伸びをする。うちの学校、初回の遅刻、五回目、十回目とか、記念の遅刻には、反省文が必要だった。まじめんどくさい。ていうかそうこうしてるあいだに雨降りそう。反省文書きたくない。考えて考えて、俺は恐る恐る森くんに聞いてみた。

「なあ、森くん。欠席って、遅刻じゃないよな?」
「…そりゃ、そうでしょうね」

遅刻したくない。雨に当たるのもいやだ。あと、俺は先輩風を吹かせたい。

「いいこと思いついたんだけど」
こういうとき、俺は悪知恵が回るほうだと思う。さっき森くんがなぞった時刻表を指差して、森くんの顔を見上げた。眼鏡の奥のきょとんとした目が、いつも通り視線を合わせて俺を見る。

「ここで会ったのも運命だし、遅刻やだし、反省文はもっとやだし」

言葉の限りを尽くして森くんを口説いてみた。悪い先輩だなあと思う。森くんはますます目を丸くしている。そういう顔をするとやっぱり年下だな、幼いな、って思う。

ずっと前、こんな小説を読んだことがある。舞台はバス停ではなく、たしか学校の下駄箱の前だったけど。クラスメイトにたぶらかされて、電車で遠くの街に逃避行をする話。都会で映画を見て、街を歩いて、当たり前のように家に帰って、次の日からまたただのクラスメイトに戻る話。俺はそれより、もっと面白いことをしたい。事実は小説よりも奇なり、なんてのはうそ、ってのが、俺と森くんの共通認識だったから。

こんなことが現実にあったらいいのになって、俺は借りた本を森くんに返すときにいう。森くんは、事実は小説よりも奇なりなんてのは嘘ですよといいながら、俺の図書カードに判を押す。俺もそう思ってたけど、そう思い続けるのは嫌だった。たまには羽目を外したい。森くんと一緒なら、外せる気がする。

「な、森くん。乗っちゃおうか、次のバス」

森くんは目をますます見開いたけれど、思ったよりも驚かなかった。なんとなくわかってたのかな、多分森くんも、そんな感じの本は読んだことがあるだろうから。

うなづいてくれるかな、先輩なにかんがえてるんですか、とか言われないかな。俺は内心ビクビクしてたけど、森くんはやっぱりまた少し屈んで、目を細めて笑った。

「…はい。そうですね」

その口から出たのが紛れもない肯定の言葉だったから、俺はすげー嬉しくなった。テンション上がる。

「じゃ、決まりだな。釣りでもしようぜ」
俺よりデカイ森くんの背中をばしんと叩く。俄然楽しくなる、遅刻確定の朝。こんなことするのは、学生の特権だ。五分後のバス、海岸線行き。俺の叔父さんが釣り具の店を出していて、よく釣りをしに行く。叔父さんならたぶん、笑って竿を貸してくれる。

学校のある平日に、あの、滅多に釣り人のこないお気に入りの穴場で釣りをする。めちゃくちゃ楽しそうに、俺には思えた。森くんも心なしか楽しそうで、けどちょっと考えてから困ったような顔をする。

「竿とか持ってないですけど」
「海んとこに、釣り屋あるだろ。あれ俺の叔父さんの店だから、何か借りよう」
「…いいんですか?」
「いいっていいって!」

森くんらしい心配にどーんと胸を張って答え、俺は任せとけ!って先輩風を吹かせることに成功をした。森くんはちょっとだけまた笑ってから、よろしくお願いします、と相変わらずの真面目さでいう。俺もおう!なんて言ってみる。完全に浮かれていた。




バスを待つ間、学校に仮病の電話をいれた。森くんが真面目な顔で真面目に嘘をついているのを見ながら、それが面白くって笑いそうになるのをこらえるのに必死だった。担任の先生には、具合悪そうに聞こえたらしいけど。

計画通りズル休みの布石を打った俺たちのもとに、バスは定刻より二分遅れでやってきた。乗るのはもちろん、俺たちだけ。朝っぱらから海のほうにいく物好きは滅多にいない。バスの中にいるのは、海にいくまでの道にある病院に向かうんだろうじいさんがふたりだけだった。

バスは空席ばかりだけど、なんとなくはしゃぎたくて一番後ろの席に座る。ここからだと、他人に見えにくいしな。隣に座った森くんと目が合って、にやっと笑った。これで共犯だ、バスが走り出す。

「この時期、何が釣れるんですか?」
「んー、アイナメとか、メバル?よくわかんないけど、こないだ叔父さんが釣ったの持ってきてくれた」

森くんもちょっとわくわくしてんのかな。そんなことを聞いてきたから、俺も得意になって答えてやった。春になると釣れる魚も増えて、海釣りはがぜん楽しくなる。

「森くん、釣りしたことあんの?」
「小さい頃、釣り堀に連れて行かれたことはあるんですけど。海は初めてです」
「マジかよ!釣れるといーな」

ていうか、森くん、よくオッケーしてくれたな。いきなり海にいこうって誘って、しかも学校サボってなんて、森くん真面目くんなのに。


「だって、すごく、楽しそうだから」


なんて森くんが優しく笑って答えてくれるので、俺のほうが照れてしまった。にやつきそうになるのを懸命に堪える。なんか、周りに森くんみたいに穏やかな人が全然いないせいでめちゃくちゃ新鮮だ。妙にもぞもぞしてしまう。居心地悪いとかは全然ないのに、そわそわする。

「ていうか、あそこの海、釣れるんですか」

森くんはそう言って、まだ海の見えない窓の外を眺めたようだった。たいていの海は魚が釣れるし、俺は穴場を知っているから、かなりいい釣り場になると思う。けど初めてだっていう森くんを驚かせたいというのもあり、ついでにあわよくば森くんを釣りにハメようという思惑もあり、俺はそれについては黙っておいた。

「んー、叔父さんは船で沖まで出るんだけど。防波堤んとこいって、雨降るまでは粘ってみようぜ」

雨が降ってるほうが釣れる気はするんだけど、今日はお互い制服だしな。春先とはいえ、雨が降ると冷えるし。森くんが釣り初心者なことをいいことに、俺はおすすめのルアーとか、穴場の見つけ方とか釣れやすい魚の話をする。目を輝かせて森くんが聞いてくれるから、俺も調子に乗る。こういう可愛い後輩がバスケ部にもいてくれればいいのに。めちゃくちゃ可愛がるのに。できれば俺より小さいサイズで。…なんてのは非現実的だけど、俺よりめちゃくちゃデカくてしかも図書局の森くんがいるからまあいいかと思う。

「…釣り、好きなんですね」

喋り疲れた俺が黙ったあたりで、森くんが微笑んで言った。

「ん。バスケはほら、ちっちゃいとどうしても不利だろ。でも釣りはそうでもないし」

マジチームメイトと後輩からもマスコット扱いされるのは勘弁だ。悪気はないってわかっててもお前らはデカくていいよなって気はするし、俺は背が低いせいでそういう感じの扱いをされるのは嫌だった。最近は慣れたけど、中学の時なんか腹が立って仕方なかったし。そんなときのめり込んだのが釣りだったってわけ。

「森くんの身長、マジで羨ましいもん。180あるだろ?」
「あー、そのぐらいです」

うそ。ほんとはもうちょっとある。バスケ部の185センチある友達と同じくらいの高さだしな。五センチわけろ。手もでかいし、ほんと羨ましい。俺も高いところの本とかとってあげてきゅんってされたい。

「運動部とか勧誘されなかった?」
「バレー部とバスケ部には勧誘されましたけど、図書局入るって決めてたんで」
「あはは、それ、相当レアだわ」

まあ森くんがこんな感じなので、あんまりコンプレックスに感じないけどな。たまに廊下で森くんに会うと声をかけるんだけど、そのとき俺と一緒にいる友達にはお前にああいうタイプの友達がいるのが意外とかいわれる。森くんも礼儀正しく先輩こんにちは、なんて言ってくれるので、よけいに。

「俺なんて最初見学に行ったとき、マネ希望かと思われたもん」
「…それも、あんまりですね」
「だろ。ま、バスケ好きだし楽しいし、いいんだけどさ。周りデカいやつばっかだから、ちょっと怖い」
今でもバスケ部内でネタにされているのを、自分から暴露する。森くんが困ったみたいな顔をして俺を見たから、笑って視線をバスの外に向けた。バス停を二つ過ぎて、見慣れた景色の場所に出る。もう少しで到着だ。いつのまにかバスは貸切になっていた。

「ま、森くんは優しいし、メガネだし、怖くないけど」
「…メガネってなんですか」
「メガネはメガネだろ!」

いつも視線合わせてくれるとことか、自分よりずっと図体の小さいやつにもちゃんと礼儀正しくしてくれるとことか、怖がる要素がないってのもある。メガネだし。ちょっと不服そうな顔をした森くんを笑って、それから俺は窓の外を指差した。

「見ろよ、海!ほんとに来ちゃったな」

山間から見える白い波浪。海だ。

「来ちゃいましたね」

森くんが、そう言ってくしゃっと笑った。


バスが叔父さんちの最寄りのバス停に止まる。運転手さんはかなり胡散臭い顔で制服姿の高校生二人をみていたけれど、気にしないでバスを降りた。森くんのうしろで扉が閉まり、バスが走り出す。めちゃくちゃ体が軽い。いつもの朝はなんなんだよって感じ。

「よっし、行くか。叔父さんの店、すぐだから」

雨が降る前に着けてよかった。はい、とうなづいた森くんの前を、浮かれた足取りで進む。懐かしい波の音を聞きながら、実は俺も最近釣りをしてないことを思い出した。進級して部活が忙しいのもあって、なかなかここまで来れなかったんだよ。だからすげー楽しみ。いつも叔父さんとか叔父さんの釣り仲間とばかり釣りをしてたから、森くんにいろいろ教えてやるってのもまた、楽しみだ。しかもクラスメイトは教室で勉強中。テンションが上がらない訳がない。

「今ごろ1時間目か。俺は生物。森くんのとこは?」
「数学です。すごく、気分いいですね」

やっぱり高校生だなってことを森くんが言って笑うから、俺もつられて笑った。

「ホントにな!なんか今日は、めちゃくちゃ大物が釣れる気がする」

目覚ましの電池が外れなければ、信号に引っかからなければ、バスに乗り遅れなければ、森くんが珍しくが寝坊しなければ、こんなことはまず起こり得なかった。すげーと思う。俺もなかなか思い切ったことをした。

狙い通り、九時開店の叔父さんの店はオープン作業中である。ノボリを上げている叔父さんの背中に駆け寄って、叔父さん久しぶり、と声をかけてみた。

「優輝じゃないか!どうしたんだ、いきなり」

腰を抜かしそうなくらい驚いたらしい叔父さんが尻もちをつく。ちょっと困った風についてきた森くんが、叔父さんを見て会釈をした。やっぱり礼儀正しい。

「学校行く途中でさあ、どーしても釣りしたくなっちゃって。友達連れてきた!」

まあ誤魔化しても誤魔化しきれないし、俺はさっさと白状する。叔父さんはぽかんと口を開けて、なぜか森くんを見上げた。

「…サボったのか?」
「まあ、簡単に言えばそうなんだけど。母さんにはナイショにして!」

釣り具持ってこないとな。とりあえず森くんに叔父さんを任せ、俺は勝手知ったる叔父さんの店の中にずんずん進んだ。なにか叔父さんが森くんに語りかけるのが聞こえる。内容まではわからなかったけれど。

事務所のほうにある、昔の俺の遊び場には何本もつりざおが立てかけてある。俺がいつも使うのと、あと俺の見る限り一番良さそうなのを選んだ。あとルアーだろ、バケツもいるし、一応予備のリールも持っていこう。

「おおい、優輝」
「ん。これとこれ、借りるな」
「それはいいんだが、あの真面目そうな子はなんだ、バスケ部か?」

事務所のほうをちらっと覗いた叔父さんは、俺がいうまでもなく餌を選んでくれているようだった。ありがと、と声をかけて、それからやっぱり俺の友達っぽくない森くんについて、さらっと説明をいれる。

「ううん。図書局、でも、仲いいんだ」

と、俺は一方的に思っている、し、こんなこと付き合ってくれるくらいだから、その認識は間違ってないと思う。そうかあ、といって、叔父さんは倉庫のほうに歩いていったみたいだった。

「…せんぱい」
「あ、森くんこっちこっち」

それと入れ替わりに恐る恐る事務所を覗いた森くんを招き寄せる。俺なんか鞄も放って今すぐ飛び出せます、って感じだけど、森くんは直立不動だった。鞄置いてっていいよ、といってそこらへんの椅子の上を指差し、森くんに竿を一本手渡す。…もうちょっと長いのでも良かったかな。

「換えのリールとバケツ持ったし、ええと、使い方はな…」

きょとんと手の中のつりざおを見下ろしている森くんに、簡単に操作を説明する。納得のいった風にうなづいた森くんに、これなら大丈夫だろって思う。いっぱい釣れればいいな。

「浜はまだ冷えるからな、これ着てけ」

なんてことをしているうちに、倉庫から叔父さんが戻ってきた。ここで釣り具を借りる人にサービスで貸している上着を持ってきてくれたらしい。それと、この時期ならこれでいろんなのが釣れるなっていう餌。受け取って、久々の釣りに胸が高鳴る。

「ありがとうございます、竿、お借りします」
「サンキュ!じゃ、いこうぜ」

叔父さんに手を振って、俺は居ても立ってもいられず店を飛び出した。さっきよりも空は明るい。もしかしたら、雨降るまで、もうちょい時間があるかも。

「釣れますかね、先輩!」
「わかんね!釣れなかったら、昼飯は無しだな!」

後ろで森くんが叫んだ。それに答える声が弾む。少し奥まったところにある釣り場まではせいぜい五分もかからない。隣には森くんがいる。今頃教室で、クラスメイトたちは三半規管について学んでいる。どうしようもなく楽しかった。



防波堤の向こうには、見慣れた海が待っている。







- ナノ -