「…森くんじゃん!」

道路の向こうで、先輩は俺の名をこれでもかってくらい大きい声で呼んだ。ぶんぶんと腕を振りまわし、信号が青に変わると同時に駆け寄ってくる。曖昧に手を振り返し、俺は先輩が俺の手前で急停止するのを待った。寝癖のついたつむじを見下ろす。

先輩は背が低い。たぶん共学だったら女子の間に挟まれて「カーワーイーイー!」とか言われる大きさだ。だからなんとなく動きがちょこまかしてて、見てると和む。

「おはようございます、先輩」

小さいけれどバスケ部の先輩と、背だけは高いけど図書局の俺。学年も違うし接点はほぼないけれど、見た目と相反して意外と本が好きらしい先輩が昼休みや放課後に図書館に来て、「委員さん、わるいけどあの本取って」と背が小さいことをまったく気にしていない風に頼んでくるものだから、お互いに顔みしりである。放課後に図書館に来る高校生なんて珍しいから、図書当番の俺と先輩は、カウンター越しにけっこう話をしたりする。

同じ作家が好きってこともあって、いつも話は盛り上がる。図書館を閉める時間になるのはよくあることだ。まあ、近くに住んでたってことは、知らなかったけれど。

「バス、行っちゃったな」
「遅刻確定ですね」

とりあえず暫くはバスの来るあてのないバス停で、なんとなく並んで行きかう車の流れを目で追ってみる。学校まではバスで三十分。他の手段といえば自転車だけど、あいにく今日は午後から雨の予報だった。

「寝坊か?森くん真面目そうなのに」
「…今日は、うっかりです。先輩はいつも?」
「俺だってうっかりだよ!俺だって真面目だし!」

先輩は小さい身体を精一杯使ってそう反論すると、おんなじように道路を眺めていた身体をくるりと回転させて、俺を見上げた。

「…どうしような」
「……どうしましょうね」

先輩が言った通り俺は真面目なので、実のところこれが初めての遅刻になりそうである。正直どうしていいかわからない。途方にくれて聞き返せば、先輩はちょっと肩を落としてから、意外な台詞を口にした。

「…三年間無遅刻めざしてたんだけどな」
「……先輩も遅刻初心者だったんですね」

なんとなくかれはドジを踏むイメージがあったせいで、俺は頭のなかで勝手に先輩はわりと遅刻していると思っていた。もちろん口に出さなかったけれど。先輩は頷いて、森くんもだろ?と聞いてくる。黙って首を縦に振り、俺も肩を落とした。

「次のバスは?」
「五分後に海の方に行くのが一本だけ。学校行きは、一時間後です」

時刻表を指でなぞり、そう答える。街のはずれのほうにあるこのバス停の時刻表は、まばらにしか埋まっていない。

「…遅刻、したくないんだけど」
「俺もです」

先輩はあーあ、と大きい声で言って伸びをした。初回の遅刻、五回目、十回目、節目の遅刻には、反省文が必要だった。めんどくさいこと、この上ない。ため息をついた先輩につられて、曇天を見上げる。雨が降りそうだ。折りたたみ傘、鞄に入ってたっけ。

「なあ、森くん。欠席って、遅刻じゃないよな?」
「…そりゃ、そうでしょうね」
「いいこと思いついたんだけど」

にかっと笑って、先輩は真っ直ぐ時刻表を指差した。八時台のやつ。

「ここで会ったのも運命だし、遅刻やだし、反省文はもっとやだし」

なんとなく続く台詞が想像できて、俺は困惑するよりさきに、小説みたい、と思った。非現実な逃避行。俺と先輩が好きな作家がよく書くような、青春っぽい話。高校に入ったって小説みたいな青春っぽいキラキラしたもので溢れていたわけじゃない。図書館は静かで、快適だったけど。先輩と話をするとき、閉館時間になった図書館にカギを掛けて、部活に戻る先輩に手を振るとき、ちょっとだけ青春を味わっていた。けど今突きつけられるのは、そんなのとは比べ物にならないくらいの非現実。

「な、森くん。乗っちゃおうか、次のバス」

先輩の声はあまりにも魅力的すぎて、俺には断るなんて選択肢は与えられなかった。

「…はい。そうですね」
「じゃ、決まりだな。釣りでもしようぜ」

先輩は俺の答えに気を良くしたように笑うと、ぽんと俺の背中を叩いた。五分後にバスが来る。俺と先輩はたぶん、それに乗る。一番高い料金を払って、学校とは正反対の方向に三十分くらい走るんだろう。どう考えても非日常な、火曜日の朝だ。

「竿とか持ってないですけど」
「海んとこに、釣り屋あるだろ。あれ俺の叔父さんの店だから、何か借りよう」
「…いいんですか?」
「いいっていいって!」

俺がいいのかって聞いたのは、叔父さんに正々堂々と学校サボって釣り具を借りるっていうことについてだったんだけど。先輩は俺に任せとけ!って胸を張っているから、それ以上突っ込むのはやめておいた。バスが来るまでの時間、俺は頭痛がひどくて、先輩は腹が痛くて動けない演技をして、学校に電話を入れる。口元がにやけているのは、先輩もいっしょだった。

バスが来る。俺たちのほかに、バス停に人はいなかった。ゆっくりと停車をするバスに、先輩が意気揚々と乗り込んでいく。俺はそれに続いて、高鳴ったままの胸を自分でも可笑しく思った。いつもの俺なら、学校サボって海に行くとか信じられないんだけど。先輩と一緒だし、楽しそうだし、いいかなって思ってる。

バスは案の定空いていた。一番後ろに、こそこそ先輩と座る。目が合って、にやっと笑った。共犯者みたい。共犯者なんだけど。

「この時期、何が釣れるんですか?」
「んー、アイナメとか、メバル?よくわかんないけど、こないだ叔父さんが釣ったの持ってきてくれた」

どちらも名前くらいは知っている。美味しいんだっけ。春先に釣れる魚だとは知らなかった。先輩は走り出したバスに口元を緩ませて、鞄を座席に放り出した。次のバス停まで、しばらく距離がある。

「森くん、釣りしたことあんの?」
「小さい頃、釣り堀に連れて行かれたことはあるんですけど。海は初めてです」
「マジかよ!釣れるといーな」

ていうか、よくオッケーしてくれたな。小さく笑って先輩がそんなことをいう。だって、楽しそうだったから。答えれば、ちょっとだけ嬉しそうに見えた。図書局なんて部活らしくないし、先輩と後輩の繋がりはほとんどない。だから俺にとって、一番親しい先輩といえば勝手にこの先輩のことを思いつく。ちょっとした偶然が重なって、そして先輩は俺のことを簡単に非日常に連れ出してくれた。

「ていうか、あそこの海、釣れるんですか」
「んー、叔父さんは船で沖まで出るんだけど。防波堤んとこいって、雨降るまでは粘ってみようぜ」

そういえば天気は曇天だった。気持ちが浮かれているから、全然気付かなかったけど。釣り具屋さんの親戚がいるなんて知らなかったから、ルアーの話とか、釣りのコツとか、そういうのを教えてくれる先輩にちょっとびっくりする。楽しそうだ。

「…釣り、好きなんですね」
「ん。バスケはほら、ちっちゃいとどうしても不利だろ。でも釣りはそうでもないし」

あんまり身長のこと気にしてないんだな、って勝手に思ってたけど、そうでもないのかな。俺のクラスのバスケ部の奴とかも、めっちゃ小さくて面白い先輩がいる、みたいな話はよくしてる。部活でも人気者だと思うんだけどな。

「森くんの身長、マジで羨ましいもん。180あるだろ?」
「あー、そのぐらいです」

先輩は、たぶん160センチちょっとくらいだろう。確かに小さい。女子と並んでいても、同じぐらいだもんな。やっぱりバスケ部っていえばデカイやつが多いから、そこに並ぶと先輩はかなり目立つ。バスががたんと揺れて、俺より結構下の位置にある先輩の肩が跳ねた。

「運動部とか勧誘されなかった?」
「バレー部とバスケ部には勧誘されましたけど、図書局入るって決めてたんで」
「あはは、それ、相当レアだわ」

確かに総部員数3人の部活に好んで入る奴も珍しいかも。まあ、部活って呼んでいいのかは、ちょっとわかんないけど。でも俺は本が好きだし、図書館が好きだから、かなり向いてると思う。将来は、司書になりたいと思っていた。最近は編集者と迷っている。

「俺なんて最初見学に行ったとき、マネ希望かと思われたもん」
「…それも、あんまりですね」
「だろ。ま、バスケ好きだし楽しいし、いいんだけどさ。周りデカいやつばっかだから、ちょっと怖い」

先輩はそう言って笑うと、また視線をバスの外に向けた。バス停を二つ過ぎて、海までもうすこしといったところまできた。見慣れない景色が広がっている。膝に置いた鞄が、いつもよりずいぶんと軽く感じた。

「ま、森くんは優しいし、メガネだし、怖くないけど」
「…メガネってなんですか」
「メガネはメガネだろ!」

確かにメガネはかけてるけど。先輩は愉快そうに笑って、見えてきた海を見てまた笑った。

「見ろよ、海!ほんとに来ちゃったな」
「来ちゃいましたね」

バスが車通りもない道路の端にぽつんと佇むバス停に止まった。怪訝そうな顔をした運転手さんには構わず、バスを降りる。心なしか空が広い。海が青い。走り去るバスを見送って、先輩が共犯の俺に笑顔を向ける。

「よっし、行くか。叔父さんの店、すぐだから」

雨は暫く降りそうにない。出来れば暫く降らないでいてほしい。降水確率60パーセントに祈りながら、俺ははい、と頷いて、その背中に続いた。波打ち際で波濤が弾ける音が、やけに浮かれて聞こえている。当たり前の平日の、午前9時をすこし回ったくらいの時間とは思えない、誰も居ない海沿いを歩く。

「今ごろ1時間目か。俺は生物。森くんのとこは?」
「数学です。すごく、気分いいですね」

本が2冊と、あとは教科書とかノートが入っている鞄はやっぱり重い。肩に食い込む。でも、足取りはいつもよりずっと軽かった。

「ホントにな!なんか今日は、めちゃくちゃ大物が釣れる気がする」

目覚ましの電池が外れなければ、信号に引っかからなければ、バスに乗り遅れなければ、先輩が寝坊しなければ、起こらなかった非日常。後先を考えずに、とにかくいまは、わくわくする。

海から少し離れたところに、先輩の叔父さんの店はあった。ちょうど九時開店だったみたいで、釣り具貸します、のノボリを出している叔父さんらしき人に先輩が駆け寄っていく。

「優輝じゃないか!どうしたんだ、いきなり」
「学校行く途中でさあ、どーしても釣りしたくなっちゃって。友達連れてきた!」

先輩はなんにも誤魔化す様子なく、そうあっけらかんと言い放った。何歩か遅れて続いた俺も、叔父さんも、顔を見合わせて目を丸くする。

「…サボったのか?」
「まあ、簡単に言えばそうなんだけど。母さんにはナイショにして!」

釣り具借りるな、と言って、先輩はずんずんと店のなかに入っていってしまった。完全に取り残された俺は、ノボリを握ったまま硬直している先輩の叔父さんに、おはようございます、なんて間抜けなことこの上ない挨拶をしてみる。

「…あんた、優輝に連れられてこんなとこまで来たのかい?」
「え、…っと、まあ、はい」
「親御さんは心配してないかい?」
「はい、大丈夫です」
「ならいいけどな…。まったく、優輝はホントに」

叔父さんはさすが先輩の叔父さん、という感じで怒涛のように俺の心配をしたあと、おおい優輝、といいながら店の中に入っていってしまった。店先で取り残されたままの俺は、おそるおそるその背中に続く。たくさんのつりざおが飾ってある店内にはまだ客の姿はなかったが、学ランの背中はその隣にある事務室みたいなところで見つかった。

「あ、森くんこっちこっち」

鞄を放り投げ、つりざおを二本持った先輩が俺を振り向いた。やっぱり先輩はちっちゃい。つりざおと対比すると余計にそう思う。もちろん口には出さなかったけれど。鞄ここに置いてっていーよ、と言われたから、お言葉に甘えて鞄を置く。つりざおを受け取る。ずいぶんと身軽になった。

「浜はまだ冷えるからな、これ着てけ」

リールの使い方を教わっていたら、ジャンパーを二枚と、それから餌が入っているらしいビニール袋を持った先輩の叔父さんが事務所に入ってきた。…やっぱり先輩の叔父さんだ。

「ありがとうございます、竿、お借りします」
「サンキュ!じゃ、いこうぜ」

先輩は叔父さんに手を振って、肩にジャンパーを引っ掛けたまま店の外に駆け出していった。叔父さんに会釈をして、それに続く。先輩の頭のむこうに、海が見える。とても広い。

「釣れますかね、先輩!」
「わかんね!釣れなかったら、昼飯は無しだな!」

自然と声が弾んだ。車通りなんて全くない四車線を、海岸まで突っ切っていく。今頃教室で、クラスメイトたちは三次関数を微分している。ひどく愉快な気分になった。


防波堤の向こうには、海が広がっている。


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