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あるフランスの恋愛小説のハリウッド映画化が決定されたのは、伊鶴の訳したそれが出版されるより、すこし前のことだった。その日の伊鶴はかなり不安げだったが、かわりに俺が喜んでおいた。翻訳家の報酬は印税だ。その日のちょっと豪華な晩飯は、またしても伊鶴の奢りになった。俺は泥酔していたので、それに情けなさを感じる暇もなかった。

そのハリウッド映画のキャストが日本でも人気の高い有名な俳優に決まり、アカデミー賞候補と称され、そして日本での封切りを来週に控えた今日。これ以上ないタイミングで、伊鶴が苦労して訳し終えた恋愛小説が発売される。

俺は予約をしたそれを、開店直後に最寄りの本屋で買う。書店の一番目立つところに平積みされたそれに目をやる。表紙には、訳:立花伊鶴、の文字がある。自然と笑顔になった。俺の名前はといえばそれとは遠く離れたおっさんが立ち読みしてるゴシップ雑誌の最後の方にちらっと載ってるだけだけど、そんなのぜんぜん気にしないくらい、嬉しかった。

俺は伊鶴の訳した文章が大好きだから。たくさんの人がそれを目にするのを、誇らしく思う。

本を抱えて帰路についた。朝早く起きたせいでかなり眠い。でもほんとうは伊鶴の家で発売前に見たこの本を、どうしてもはやく読みたかった。

あの日。

伊鶴がこの本を書き終えた日に、俺の恋は、二年越しの恋は成就した。終わりのマークが押されたあとに、ただ燻っていただけだと思っていた恋は終わっちゃいなかった。始まってすら、なかった。
なんの打算もなく、ガキみたいに好きだという気持ちだけで、それだけでずっと一緒にいられると、そう思ったし、今もそう思っている。

「…あ」

ボロいアパートに辿り着くと、俺の部屋の前には先客がいた。いまからドアベルを押します、という体勢で固まったまま、先ほど目にした名前の主が、俺の愛しい恋人が、俺の姿を認めてその瞳を見開いている。

「…健斗がこの時間に起きてるとか」
「珍しいこともあるもんだろ」

笑いかけてやって、すこし身体をどけた伊鶴の隣に並んでドアに鍵を突っ込んだ。ちらちらダークブルーの視線が俺の抱えた本屋の紙袋に向けられているのは無視をして、ドアを開ける。汚い部屋に伊鶴を迎え入れる。いまさら遠慮もなにもなかった。

「…わざわざ、こんな朝早くから買いにいかなくてもいいだろ」
「売り切れたら、困るからな」

ふいとそっぽを向いた伊鶴は照れているらしい。いつもは論文だとか専門書を訳していた伊鶴にとって、初めての、名前が露出する仕事だった。それが、発売前からこんなに話題になってるんだから、伊鶴はついてる。俺は伊鶴の翻訳の腕を誰より買ってるわけだから、これで伊鶴の翻訳家としてのキャリアは安泰だって安心する気持ちもあった。俺もなんかバイトしよう。駅前の弁当屋…、はもういいや。

「…いま読むの、それ」

ぱらぱらとページをめくった俺に、伊鶴が拗ねたように声をかけてくる。汚い部屋を見兼ねて座るスペースを作るためにいろんなもの、ほとんどが次の仕事の資料、で埋まってるんだけど、を片付けながら、俺はああと返事を返した。

「気になるだろ。だめ?」
「…恥ずかしいから、やだ」

伊鶴がこんな朝早くから、しかもなんのアポもなしに俺んちにきた理由はわかってる。伊鶴は俺にこの本を読ませたくないらしい。出来上がった本を、俺は読ませてもらってない。だから俺は、散りばめられたジュテームの行方をしらないのだ。

それを、知りたかった。当然だろう。好きな相手が訳したアイラブユーが、理解できないと言い切ったさよならのかわりのくちづけと愛の囁きが、どんな風に様を変えているのかを、知りたいのは。

「恥ずかしいってば!」

伊鶴は大きい声を出すと、せっかく次の仕事のターゲットであるイエティの資料を退けて作ってやったスペースに座ることなく俺の腕から本をもぎ取ろうとする。ジュテームの位置なんてとっくにわかってる本をめくるのは、そう難しいことじゃなかった。それに俺は伊鶴よりだいぶ背が高い。両手を上に伸ばして本を見上げれば、伊鶴に手は届かない。

「健斗!」

またな、は、俺が打ち込んだそのままに、伊鶴の訳のなかに浮かんでいた。違和感はない。原書をあれから辞書片手に、学生時代ぶりの仏語に格闘しながら読んだけど、俺の訳は間違ってないはずだ。伊鶴はそれを、そのまま使ったらしい。口元がにやける。

「やだ、帰る」
「せっかく来たんだから、ゆっくりしてけって」

ぺらぺらページを捲りながら次のジュテームの行方を探していたら、ついに伊鶴に拗ねられた。仕方なく本を閉じて、それを仕事机(汚い)の上に置く。伊鶴はほっとしたように、ようやく鞄を下ろして俺のとなりに座った。

「発売、おめでとう」
「…ありがと」

ちょっとだけ怒ったまま、伊鶴はそう答えた。相変わらず俺は下心ありで伊鶴にいま暇か、仕事どうだ、遊びに行ってもいい、なんてメールをする。すると伊鶴は、電話をかけてくる。少しも変わらない。けれど俺は伊鶴を抱きしめることが出来るし、キスしてもそれは合意の上だ。犯罪じゃない。恋人になって、そんなところが変わった。

「…編集さんから、同じ作者の前の作品も訳さないかって」
「マジか。よかったじゃん、映画が売れればそっちも売れるかもよ」
「……でも、また恋愛小説。読んだけど、よくわかんない」

安物のインスタントコーヒーを飲みながら、伊鶴はため息をついた。どんな話?と促すと、すこし言い淀んだ。伊鶴が自分の頭のなかの仏語を日本語に噛み砕くのを待ちながら、ちょっとだけ微笑ましくなる。

恋人同士の常識も、伊鶴には馴染みがない。例えば手を伸ばして伊鶴の髪の一房を掬ってみても、ほおをそっと撫でてみても、伊鶴はその瞳をぱちぱちと瞬かせるだけ。いとしいという気持ちに理由はない、触れたい、と思う気持ちにも。
たくさん恋愛小説に触れれば、訳のわからないアイラブユーや、グッバイや、ステイウィズミーを教えていけば、わかるようになるだろうか。伊鶴のほおを撫でるこの指の意味も、伊鶴が俺にジュテームの訳を見せたくない理由も、言葉にできるようになるだろうか。恋に疎い恋人に、そんなことを思う。

「受けろよ、せっかくの依頼だろ。俺も手伝うし」
「…うん……」

ラブイズブラインド、とはよく言ったものだと思う。伊鶴の前では俺は、全部を楽しいと思う。こうして一緒にいられるだけで十分に幸せだってのに、伊鶴が俺に向ける気持ちを、ちゃんと理解できたから。

「また、ジュテームばっか」
「少しはニュアンスの違い、わかるようになった?」

笑いながら反対の手でその髪を撫でてやる。心地よさげに伊鶴が身体を寄せる。伊鶴が好きだった。とても。いまもその気持ちが変わらない。この気持ちさえ持ち続けていれば、俺は伊鶴とずっと一緒にいられると思う。子供みたいに信じている。そしてきっと、伊鶴も同じ気持ちでいてくれる。そしたらその願いが、かなわないわけがない。どんな夢物語だったとしても。伊鶴が訳した、あの小説みたいに。

「…ちょっとだけ!」

強がりみたいにそう言って、腕の中で伊鶴は笑ってくれた。俺の見たかった、はにかむような嬉しそうな笑顔。それが、俺のしらなかった、恋人の顔をして綻ぶ。俺たちの恋は、ようやく始まったばかりだ。






ピリオドにはまだ早い 終




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