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それからというもの、俺は熱心に伊鶴を遊びに誘った。学生のころみたいな理由をつけて、下心ありありで。
俺は伊鶴にメールを送る。現代人の俺は、いちどメールという手段を得てしまえば電話よりもそちらを選ぶ。いま忙しいかもしれない伊鶴に電話をかけるのは、その声を聞いて、明日暇か、今日の夕飯決まってるか、なんていうのは、昔はあれだけやっていたのに、難しい。
「…もしもし、健斗」
しかし俺のそんな打算と現代人らしい安直さをまるで無視するように、メールの返事はいつだって電話だった。もとより暇な、しがない三流ライターは決まってその電話に出られる。メールをすれば電話がくる、とわかっているから俺も身構えている。
「おう、仕事終わったのか?」
「まだ途中。進まなくなったから。…晩ご飯、きめてない」
「なら、どっか食べに行こう。気分転換になるだろ」
いま伊鶴が取り組んでいるのは、フランスの恋愛小説の翻訳だという。フリーランスの伊鶴にそんな名前が表紙に出るような依頼は願ってもないものだ。かれは内容を知らないままに引き受けた。引き受けて、それで、それにらしくもなく悪戦苦闘している。恋人同士の機微を日本語に翻案することにも、何度も囁かれるジュテームを好きだよ、や、かわいいね、に置き換えることにも。
「うん。…イタリアン、食べたい」
「…サイゼでも行くか」
わかった。じゃあ、駅前のな。嬉しそうに頷いたまま電話を切りかけた伊鶴に慌てて場所と時間を告げて、俺は電話を切った。一分五十八秒。
俺はまだ、伊鶴のあのときの「おれは、健斗が好きだから」を、納得のいく言葉に訳せないでいた。
直訳するとアイラブユー、意訳なら、アイウォントステイウィズユー。超訳してしまえば、ビーフレンズフォーエバー。
俺はずるい大人だから、どの訳も選べないままでいる。
安いからいつもお世話になってるファミレスには、約束の時間の十分前に着いた。伊鶴は俺の寒い懐事情を鑑みてか、俺の家の近くのこの場所や、もしくは俺の家かあいつの家をよく夕飯に指定する。下心は持ってる俺も、もうすっかり冷静になったから、あれ以来軽犯罪は犯していない。伊鶴にも強制わいせつ罪で俺を訴える気はなさそうだった。
「待った?」
伊鶴はいつも通りラフな格好で、約束の五分前に現れた。なんだかそのセリフが恋人同士みたいで笑ってしまう。いいや、ぜんぜん。入ろうか。まあ入る先は、ファミレスだけどさ。
「…エスカルゴとか、テリーヌとか、ビシソワーズとか、もうやだ」
伊鶴はスパゲティをフォークにくるくると巻きつけながら、そんなことを言った。珍しくかれの口に出した食べたいもの、が具体的だったことを思い出して、俺は笑う。
「どう、小説。順調か?」
「ぜんぜん。…わけわかんない」
伊鶴はそういうと、視線をイタリアンの皿にじっと向けた。かれの翻訳する小説を俺も英語版で読んだが、あれはたしかに、伊鶴にはわけがわからないかもしれない。すこし苦い気持ちになる。
一度別れた恋人たちが、様々な困難を乗り越えて、再び愛し合う話。
「最初のジュテームがグッバイなのに、次のジュテームがロングタイムノーシーで、なのになんでその次のジュテームがステイウィズミーなの」
翻訳ってのは、そういうものなのだ。伊鶴が嘆きたくなるのもわかる。ことさらに今回のテーマは伊鶴には未知すぎる恋愛。仏語は苦手だから俺は原書は眺めるくらいしかできなかったけど、伊鶴の言葉を察するに、英語版で出てきたセリフのほとんどはジュテームだったんだろう。英訳者はかなりの実力だ。
「伊鶴はどう訳したんだ?」
「……まだ」
…なるほど。ジュテームのところだけ仏語のままだろう小説を思い、俺は小さく笑った。
こんな風に伊鶴は生きてきたんだろう。この二年間。運良く恋愛小説の仕事は、入っていなかったようだけど。
「健斗ならどう訳す?」
スパゲティのあとは、デザートのカタラーナだ。今日の伊鶴はどうしてもフランスから離れたいらしい。
「…最初がさよなら、で次が久しぶり、で、その次はそばにいて?」
「それじゃ英訳そのままだろ!」
「ですよねー…」
だから仏語は苦手なんだよ。愛を語りすぎだ、あいつら。日本人を見習え。いや日本語もダメだ。月が綺麗ですね、わたし死んでもいいわ、いとしい、愛してる、全部まるで違う。恋なんて全部違う。俺の愛してる、は、嘘のまたな、だったけど。
「ちっとも進まない。明日担当さんが来るのに」
「え。…悪い、タイミング最悪んときにメールしたな」
「…ううん。どうせ、煮詰まってたし。助かった」
伊鶴はそうやっていって笑った。あの日から、俺と伊鶴が赤外線とかいう目に見えないもので明確な相互の繋がりを取り戻したときから、伊鶴の笑顔をよく見るようになった。とても。懐かしくそれを思う。伊鶴が笑うたび、俺は嬉しかった。伊鶴はあまり表情を動かさなかったから。いまは違う。そこに二年の月日を感じる。
「このあと、ひま?」
言いづらそうに、伊鶴は言った。俺に現在仕事は入っていない。好評になったらしいヴァンパイアの連載三回目は昨日上梓済み。次の依頼はいつになることか。つまりいまの俺は無職だ。…いま言ってて泣きそうになった。
「ひまだけど?」
頬杖をついて伊鶴がカタラーナを切り崩していくのを眺めてた俺は、そうやって笑う。下心を綺麗にコーティングした、友達の顔をして。
「…なんか手伝えること、ある?」
伊鶴のダークブルーの瞳が、じっと俺を見つめて、密な睫毛がふるりと瞬いた。
「…うん。わるい」
「いいよ、全然」
「今日は奢るから」
「いいって」
「税込559円くらい奢らせてよ」
俺より何倍も稼いでらっしゃる翻訳家さんにそこまで言われると、俺も引き下がらざるを得なかった。またちょっと泣きたくなった。いろいろ。でもそんなのよりずっと、俺はこうして伊鶴と向き合ってる、頼ってもらってるってことが、嬉しかった。