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クレマチス



新雪を踏み締めて夜の山を歩く。雪で薄化粧をした山は月明かりを照り返してひどく明るかった。スグリは二人分のあしあとの残る道を振り返り、それから、すこし早足になってスグリを待っていてくれたシルヴァに追いついた。差し延べられる手を取る。スグリはもう、それをためらわない。

…先の婚礼の儀式から、しばらく経った。けっきょくのところ闖入者たちのせいで台無しになってしまったあの儀式だが、図らずも、自らの意志でムラに戻ってきた女たちとこのムラの男たちとの絆は、わざわざ儀式に頼らずとも強くなったらしい。形ばかりの簡単な、アカネが舞をひとさしして長老が尤もらしく薫陶を垂れるだけの儀式が行われたのは、すっかりこのムラの暮らしが元通りになったあとのことだった。

スグリはかねてよりの約束通り、アカネのうしろで剣を持っている役を無事にやりとげた。花束に使われるあの白い花、初雪の日にスグリとシルヴァがたがいに交換したあの花の季節はとうに終わってしまっていたから、婚礼の儀式は花束を渡す手順もなく、ごくごく簡潔なものに終わったらしい。シルヴァがあとになって、短く済んでよかった、なんてこっそりこぼしていたから。

あたらしく生まれる伴侶に、祝福を与える。スグリは、すこしもその役目が、いやではなかった。誇らしく思えた。それは、スグリがシルヴァのそばで生きていくことを決めたからだ。もう、シルヴァのいつか得ただろうこうふくは、スグリを躊躇わせたりはしない。それよりもっとたくさんのことを、スグリはシルヴァに与えるのだと決めた。

「…スグリ」

きょう降った雪がおそらくは根雪になるだろう。アザミとシルヴァが話していたと、アカネが教えてくれた。平地に比べたらずっとずっと長く厳しい冬がくる。山の上での暮らしは慣れないことばかりだが、スグリはけっこうそういったことのひとつひとつを、楽しんでいるふしがある。

「…?」

そしてそんな穏やかだけれど長く続いた雪が止んだのを見計らって、シルヴァはスグリを連れて外に出た。連れられるまま山を歩いていたのだが、どうやら目的地に着いたらしい。足を止めたシルヴァが振り向いて、スグリを見て笑う。かれの真紅の髪が、雪の白さによく映える。

「…」

かれのそばまで歩を進めたスグリは、シルヴァの笑みが何を指しているのかを知るために注意深く周囲を眺めた。山の途中、ムラからそうとおく離れてはいない、山腹のすこし開けた場所だ。といっても見渡す限りの白の世界と、頭頂をうすらく雪化粧した木々があるばかり。シルヴァはその木々のなかの一本の根元で足を止めている。

「…なんだろう」

じっくり考えたけれど、答えは見つかりそうにない。木々の隙間を縫って、月の光が明るくシルヴァの表情を照らしている。穏やかな笑みだった。

冬の月夜の森は、ひどく明るい。時折吹く風に木々がそよぎ、積もった雪が風に乗って舞うほかは、動くものはなにもないと思われた。けれど、それがちがう、と気づいたのは、ひときわ強い風が吹き、木々がざわめいた直後。

「!」

がさ、と明白になにか、物音がした。はっとして思わずシルヴァの腕をぎゅっと掴んだら、喉の奥でかれの笑う気配がした。それからその長い腕が、さっきふたりで歩いた道のほうに指を差す。

あ、と思わず声を上げそうになって、スグリはあわてて自分の口を塞ぐ。そうして息を殺して、それから何度か瞬きをしてたしかにそれを確かめて、スグリはおおきく息を呑んだ。

木々の間から飛び出してきたのは、鹿のこどもだった。一匹ではない。誘われるようにして飛び出してきた鹿たちが、戯れるように雪のうえを跳ねている。

まるでダンスでも、踊っているようだ。スグリはそんなことを思う。こんなにたくさんの鹿を一度に見たことは、もちろんスグリにはない。まったくこちらの気配に気づいた様子のない鹿が跳ね回っているのを、スグリは夢中になって眺めた。

ひどく幻想的な光景だった。照り映える月光。青白い影がその上を跳ねる。思わず言葉を失って見とれてしまうような光景が、そこにあった。

「…」

そういえば、はじめてシルヴァと出会ったときにも、鹿を見た。そんなことを思い出す。まだ青葉が生い茂っていたころのことだ。すっかり冬になったことを考えれば、もうそんなに経ったのか、というのと、まだそれしか経っていないのか、というのは同じくらいだ。けれどスグリはもう、シルヴァと出会う前、どんなふうに生きていたかということをよく覚えていない。あの家で、妹たちの世話に追われ、寝込んでは蔦を手に取り、籠や花を編んでいたはずなのだけれど。単調だった日々は、すっかり過去になってしまっている。

「…すごい」

若い鹿たちの集会は、ひとしきり続いたあと、しぜんと解散したらしかった。何事もなかったように、四方八方に跳ねて散ってゆく。そのなかの一頭がスグリとシルヴァのすぐそばを通ったのにスグリは大仰に驚いて、シルヴァが愉快そうに肩を震わせていた。

「…スグリ、」

すっかりもとの沈黙が戻ってから、シルヴァがスグリのてのひらを握って口を開いた。そろそろ帰ろう、ということらしい。シルヴァがスグリに、さきほどの神秘的な光景を見せたかったのだ、ということがよくわかったから、スグリも頷いて応じた。ほんとうはすごかった、とか、鹿が思ったよりも大きかった、とか、初めて出会ったときのこと、だとかを話したかったのだけど、うまく言葉が出てこない。なんとか断片で伝えようとするのを、シルヴァが口元を緩めながら聞いている。

「えっと、鹿、鹿が…」
「…?」

鹿ってなんていうんだろう、と思いながら、スグリはなんとか楽しかった、うれしかった、というのをシルヴァに伝えようと苦心をした。きっともう、シルヴァはわかってくれているだろうけれど。こうやってシルヴァがスグリにいろいろなものを見せてくれるのが、スグリはとてもうれしい。世界はスグリの知らないことに満ちていて、シルヴァの隣で見るそれは、どれもとてもたのしくて、きれいだったから。

「シルヴァ」

けれど結局鹿に該当する言葉は探せないで、スグリはもどかしくなって真正面からシルヴァに飛びついた。いきなりスグリに体当たりをされてもなんとか踏み止まるシルヴァはやっぱりすごい、なんて思いながら、スグリはその背中にぎゅっとしがみついて、言葉のかわりに笑顔を向ける。すると、最初は驚いた顔をしていたシルヴァがうれしそうに表情を崩す。

きっとこれからも、たくさんのことを知れるのだと思う。明るく白い影が、二人分のあしあとのうえに落ちている。スグリはひどくこうふくだった。






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