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悠里がすっかりドレスの採寸を終えてしまうと、雅臣とふたりで手持無沙汰になった。見かねてか、監督が寄ってきて台本を手渡される。出来たてだよ、と笑って、かれはそれを他のクラスメイトにも配っていった。

表紙には、人魚姫、とだけある。

くたびれた夕暮れの空気のなかで、クラスメイトたちは静かになってページを捲っている。紙が擦れる音が重なる。悠里の瞳も、物語に吸い寄せられていった。
あの時演じたそれと、話は基本的には変わらなかった。推敲が重ねられたらしい物語は、より分かりやすく、ただし重厚な物語になっている。

百年後の物語。王子の子孫と、人間嫌いの人魚が出会う話。魔女に騙され人間の姿になる薬を飲まされてしまった人魚姫は、辛うじて座っていた岩で嵐に遭い海に流されて、そして波打ち際に打ち上げられる。瀕死の人魚姫を救ったのは、嵐で荒れた海の様子を見に来た王子だった。かれは人魚姫を城へと連れ帰り、怪我が癒えるまで丁重に世話をしてやる。声を喪った人魚は海に戻りたいと毎夜泣いたが、人間になってしまった身体ではそれも叶わなかった。見かねた王子は人魚に楽しむためにダンスを教える。慣れない二本の足で踏み出すステップに戸惑いつつ、人魚はそうやって自分を気にかけてくれる王子の優しさに惹かれていく。

だが、先祖の謂れを思い出してそれを拒絶する姫。そして傷が癒えたとき、人魚は夜の海にひとり向かった。そこには六人の姉たちがいて、捕らえられた魔女を人魚姫の前に突き出している。願い事をひとつ願えば、それは叶えられるのだという。はやく海に戻っておいでと、彼女たちはいう。突然のことに、そして優しい王子の顔が浮かんで人魚が迷っていると、声が聞こえた。

「決行は、今夜だ。王と王子を、必ず殺す」

それは、舟に乗って現れた国の反逆者たちだった。今夜、城に忍び込むというらしい。知らせなければ、と思うけれど、人魚姫は声を持たない。そして、とっさに人魚姫が魔女に願ったのは。

―――物語はハッピーエンドで幕を閉じる。しあわせな、恋の話だ。読み終えて、悠里はゆっくりと息を吐いた。自分が演じるのだと思うと緊張で吐き気がしそうだけれど、とてもすてきな話だと思う。
恋をすることは、とてもすてきなことだと。刹那でも、悠里に思わせてくれるような話だ。

「…読みあわせでもすっか」
「そうだな」

主役ということもあって負担を鑑みて、悠里にも雅臣にも、小道具や大道具の製作は割り振られていない。だから目下出来ることといえば、今渡されたこの台本を演じる練習をすることくらいだった。

物語に目を向ける。何かを演じるということは悠里にとって、鎧を着るのと同じことだった。

これは鎧だ、と思った。台本の表紙を、そっと撫でる。悠里の着る鎧。学校祭までの日にちはもうそれほど残っていない。この鎧を、しっかりと着る準備をしなくては。

「…昔々、海の底には、珊瑚と琥珀でできたうつくしいお城がありました」

雅臣の声が、物語を紡ぎ出した。

何かが動き出す予感がしている。
悠里は知ってしまった。『ほんとうの』東雲悠里を知る、秋月の存在。その言葉の真意。愛をすることは、こわい。悠里を縛る呪縛を、解くための希望。

柊は、恋をすることはすごい、と、教えてくれた。雅臣は、愛をすることは、楽しいのだと、示してくれた。それだけではない。先の夏休み、リオンが見せてくれたのは、ほんとうの悠里のことを、大事に思ってくれる気持ちだった。悠里はほんとうの愛や恋を知っている。大切なひとたちに、それを見せてもらってきた。

思い出さなければならない、と思う。

幼いころ、悠里に掛けられた魔法は何だったのか。愛をすることは、怖い。恋をすればそれは喪われる。悠里の手は届かない。それは、一体なんだったのか。知らなければならない、と思う。

頭の中に海中の宮殿を思い描いてみた。

百年前の人魚姫の悲劇を言い聞かせられて育った人間嫌いの姫君は、なにを思うのだろう。強引に連れ出された外の世界で出会ったやさしい王子の存在は、その胸にどんな思いを抱くのだろう。台本は黙して語らない。その解釈は、悠里に任せられている。

彼女は何を思ったのだろうか。
狭い世界で育ち、狭い価値観で生きて、寓話ばかり聞かされて。そして目の前に現実を突きつけられて、なにを思うのだろうか。

――――何を、思ったのだろうか。

悠里の脳裏に、鮮やかな光景が浮かび上がった。

彼女は何を思ったのだろうか。
狭い世界で育ち、狭い価値観で生きて、寓話ばかりに溺れて生きた彼女は、目の前に突き付けられた現実を前に、どうしたんだったか?


視界一杯に広がる空の色は、青だった。












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