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21



間に合わない、と思った。そう認識したときには、すでにシオンのナイフはその胸を捕らえようと振りかぶられていた。思わず顔を上げると、目を見開いたケイの顔が視界に入る。なにか、その口が叫ぶのも。だめだ、と思う。間に合わない。止められない。シオンのナイフは、血を吸いたがっている。


「…――――!」


甲高い金属音が響き渡ったのは、次の瞬間だった。

腕にあり得ないほどの負荷がかかる。渾身の力を弾き返されるほどの負荷に、手首がみしりと悲鳴を上げるいやな音が聞こえた。茫然とする。シオンは次の瞬間、何が起こったのかを察した。

今ごろ息を切らせた青年の胸を切り裂いているはずのナイフは、弾丸を受けて大きく弾かれている。そのままの体勢で、しばし、シオンは固まった。その場の誰もが、僅かの間凍結をしていた。

ケイを庇う様に飛び出したミシェル。かれは、目の前のナイフを、茫然と見ている。薄く煙が立ち上ったけれど、雨に打たれて、すぐに消えてしまった。

「…あ……」

シオンが油の切れた人形のように、ぶらんとナイフを手にぶら下げて、深い谷の向こうを向いた。ライフルを構えた姿勢のまま、ラインハルトは相変わらずの仏頂面をしている。

「………ラインハルト、さん」

茫然としてしまったシオンのまえから、きゅうにミシェルが姿を消す。はっとしてそちらを向けば、ケイがかれの腕を引っ掴んで駆け出すところだった。追わなければ、と頭では思うのに、身体が追い付かない。まだ燻っている、牙を剥きかけた獣に、シオン自身が一番驚いていた。

「洸!」
「…わぁーったよ」

洸の腕を引き、郁人が駆け出す。けれどそれにすら視線を向けられないままに、シオンは思わず膝をついた。泥濘が膝に沁み込み、冷たい。抉れたナイフが泥に突き立つのを、シオンは茫然と見た。ナイフの鈍い輝きは、暗いそらを背後にして、赤い目を茫然と見開いた男を映し出している。

「…」
「戻れ、シオン」

ラインハルトの声はいつも通りのはずなのに、シオンには、それが死刑宣告かなにかのように聞こえた。
…やってしまった。間違いなく、かれの制止がなければ、シオンはミシェルを殺していた。今更ながらに冷や汗が噴き出してくる。きっと躊躇いなく、ミシェルの血を浴びたあと、落ち着いたままケイに再び刃を振りおろしていただろう自分にだ。
ケイを取り逃がしてしまった。シオンがヘマをしたせいだ。全身を罪悪感が満たす。かれに見捨てられてしまう。それは、シオンの空っぽだった心に刻まれるはずのない、幼いころに捨てたとばかり思っていた、恐怖だった。

「…聞こえてるのか、ど阿呆!」

怒鳴られて、のろのろとシオンはかれのほうに身体ごと向き直った。ひとつ頷いて、緩慢に木に絡みついた鉤爪を外す。ラインハルトが佇むその傍の木に、それを狙い通りに投擲した。雨に濡れた土を蹴り、跳躍する。何も考えてはいなかった。心を落としてしまったみたいだ、とふと考えて、もしかしたらほんとうに落としてしまったのではないかと心配になる。

向こう岸の崖を蹴ったとき、信じられない痛みが右腕を襲った。
この感覚は、とすぐに察しがつく。手首が折れていた。
思わずロープを握る手が緩み、慌てて反対側の手に力を込めるけれど、片腕で脱力しきった身体を支えるのは不可能に近く。

「…っ、あ…」

手が緩む。心地いいくらいの浮遊感が身体を浸したその刹那に、シオンはゆっくりと目を眇めて空を見た。

「…!」

けれどそこにあったのは、空ではなかった。僅かにいつもより機嫌のよろしくなさそうな、仏頂面。伸びてきた腕が、力強くシオンの腕を掴む。はっとするよりもさきに、シオンの身体は軽々と宙を舞った。

背中から地面にたたきつけられて、息が詰まる。投げられたのだと気付いて、かれらしい、とこんなときなのに、ほんの少しだけ笑ってしまった。

「…何をやっているんだ」
「…ごめんなさい」
「折れたのか」
「…ごめんなさい」

大の字になって地面に転がれば、雨粒が顔に当たって痛い。謝らなければいけないことはたくさんあるのに、どれもうまく言葉にならなかった。失敗をしても、ラインハルトは、シオンを殺そうとしたりはしない。だから、謝らなければならない。許してもらう、という行為は、シオンにとって未知だった。

「…こういうときは、ありがとうと言うんだ」

ラインハルトは、隣に腰を下ろしたようだった。あとでクリーニングに出さなければいけないから、と滅多に服を汚さないラインハルトにしては、とても珍しいことだ。泥濘がそのコートを汚す。

「…」
「返事は」
「…はい」

先ほどラインハルトの銃弾がシオンのナイフを弾いたときに、おそらく手首が折れたのだろう。力の入らない手をなんとかかれのほうに伸ばそうとして、冷たい手にそれを掴まれるのを感じた。痛い。

「少し痛むぞ」
「え、…っあ!」

ごきゅり、と聞きたくなかった音がして、手首が焼け付くように痛む。骨を戻されたのだ、と思ったけれど、すでにシオンにはかれに軽口を叩く余裕も残っていなかった。

「…戻ったらきちんと手当をしてやる。それで我慢しておけ」

ラインハルトの手が布を裂く音が聞こえた。見れば、制服のコートの端を引きちぎってしまったかれが、シオンの手をそれで幾重にも固定している。

「…あ、…ごめんなさい」
「…学ばない奴だな」

ごん、と頭を殴られた。後頭部が泥にめり込む。見下ろす目の奥にシオンを慈しむような色があるのを、ほんとうは、シオンは、ずっとまえから分かっていた。眦を熱いものが焦がし、息が出来なくなる。








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