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goodbye nightmare



手元のランプを付けると、その眉間に薄く皺が刻まれているのがよく分かった。てのひらでそっとその苦しげに寄せられた目元を覆う。枕元に腰掛けても身動ぎしないほどには悪夢に囚われっぱなしのこいつの、まるで悲鳴を上げることを拒むみたいに食いしばられた唇を手持無沙汰になった反対の指でなぞった。あんまり歯を立てると、傷がついてしまう。

「…」

明日になってコーヒーがしみるだのなんだの文句を垂れるのはお前なんだぞ。口には出せない言葉をため息と一緒に飲みこんで、俺はゆっくりと郁人の表情から目線を逸らした。

首を廻らせれば、あまりなじみのない風景。まあ、それは俺が生まれてこのかたずっとあのきれいな邸に…、東の大公邸に住んでいたせいもあるのだろうけど。生まれて初めて出た外の世界でのこの家には、まだ、あまり慣れない。

行き倒れていた俺とこいつを拾ってくれたじいさんが貸してくれたこの二階建ての建物は、もとはふるい倉庫だった。いまじゃ一階が倉庫で、二階はそっくりそのまま俺たちふたりの住まいになっている。といっても、二階に置かれたままの小麦やらなにやらを一階に下ろす作業はあんまり進んじゃいねえから、まともに生活できるスペースは居間になるだろう一部屋だけだった。郁人の目的は探偵事務所を開くことだったから、それも考えると、二階の最奥にあるこの部屋が居間でその左右が俺とこいつの部屋、でもって、外からつづく階段に繋がる部屋が探偵の事務所ってのがいいだろうと考えている。前みたいに何から何まで世話してくれるメイドや執事がいるわけじゃねえから、そういうのを考えるのもまた俺の仕事ってわけだ。

「…」

とりあえずここしばらくは、そのせいで、こうして骨董屋(つうか、便利屋?)から安く買ってきたソファで眠ることを余儀なくされている。まあ俺は学生だったころにどこでも寝れるように訓練されてっから苦でもねえけどさ。

剣を振る以外にも、騎士学校で習ったことはそれなりにある。戦術や、兵法、騎士道精神や、…そして将来敵になり得る隣国の内部の情報やなんか。だが、残念なことに、先生がたは俺に散らかりまくった部屋の片づけ方法やなんかは教えちゃくれなかった。

郁人のほうはといえば、最初こそしょっちゅう床に落ちて鈍い音を響かせていたけど、もう慣れてきたようで横になって掛布をかけるなりすぐ寝る。まあそれはいいんだが、…こうして悪夢に呻くことも、そう少ないわけじゃなかった。

郁人が置かれていた環境は、俺とはまるで違う。こいつが棄てたもんは、俺が放ってきたものの何十倍も重い。周りに掛けられた期待や切望は、いまだにその足を掴んで引きずってるみたいだった。

「……あにうえ」

くぐもった呟きが、掌の下で聞こえた。目を醒ましたのかと思ってそっと手を退けてみても、郁人の目蓋は降りたまま。まだ寝ているようだ。…いまのは、寝言らしい。

きっとこいつは夢に見ているんだと思う。いつも郁人という規格外と比較され続けてきた或人さんは、すごい人だった。どれだけ優秀な家庭教師をつけられても、…どれだけ或人さんが優秀でも、かれはいつも、一歩郁人に及ばなかった。それを見た大公が満足げに頷くのを見る郁人の横顔が、ひどく辛そうだったことを思い出す。

だから郁人は逃げたんだ。

「…」

じんわりと熱が灯った掌と見つめ合ってみる。跡目争いの決闘の前の晩、郁人の手を掴んで引いた掌だ。郁人が縋ったのは俺の手だった。逃げたいと言われたんなら、俺はそれを叶えるだけで…、それで向かったのは、自由と名高いこの森の国だったってわけだ。

あの日から、今日でちょうどひと月になる。海の国でどれだけの混乱が起こってるかは知らねえし知りたくもねえ。俺はたださっさと準備を整えて、郁人の夢を叶えてやれたらいいなって思ってる。

その掌で額に張り付いた前髪を払って梳いてやると、緩慢にその睫毛が震えるのがわかった。目を醒ましたか、と思って覗き込めば、まだ焦点のぼんやりした亜麻色の瞳がふたつ、俺を見上げるのがわかる。

「…洸」

そしてその声が俺の名を呼ぶ。俺はああ、と応える。何千何万と繰り返したか分からないこの言葉のやりとりを、郁人は確かめるように口にした。

「……お前が、泣いていたから。泣きやませてやらないといけないと、思った」

寝起きとは思えないはっきりした口調で、そして郁人はそんなことをいう。なんだよ、それ。いつまでお前は俺のことを泣き虫で、チビで、いつも郁人の後ろに隠れてたまんまだと思ってるんだ。思ったけど口には出さないで、俺は伸びてきた郁人の手を両手で包んだ。ほんの少しだけ安心したみたいに、郁人の目尻が下がる。

「ま、いいけどさ」
「…まだ起きていたのか?」
「とりあえず台所のとこにあったやつ、一階に下ろしてきた。明日は食糧買いに行こう」
「……そうだな」

枕元のランプを吹き消して、俺は郁人の手を強く握る。とりあえず俺たちの部屋の確保は後回しでいいとして、事務所にふさわしい机やらを買って、それから、そうだ。起業ってどうやってやるんだよ。ここがいくら自由の国だからって、無許可で探偵業なんてやっていいのか? 学校ではそんなこと教えてくれなかったから、…いやまあそれも当然だけど、俺はすこし悩んだ。誰に聞いたら教えてくれるだろうか。アルメリカ…、いや、あいつ、まだガキんちょだしな。本でも買うしかないかもしれない。『転職マニュアル』みたいなやつ。

「…とりあえず、看板だな」
「……かんばん?」

俺が突然口に出した単語を、咀嚼しきれてないのが丸わかりの声音で郁人が鸚鵡返しした。まだ飲みこみきれてない顔だ。めずらしい。

「…探偵事務所の。さっさと始めて客取んねえと、俺たちあんま金ないんだし」
「……」
「…郁人?」

郁人はその、きれいな亜麻色の瞳をまんまるく見開いたみたいだった。暗い部屋でも、カーテンもまだついてない窓から洩れてくる月光のせいでそのくらいの表情は見える。

「……ああ」

しばらくしてから、ゆっくりと郁人は頷いたようだった。郁人の手を掴んでいた俺の手を反対の手で捕まえて、それをなにか、まるで祈るみたいに額に押し当てる。その目には悪夢の名残なんてなんにも残ってねえもんだから、俺はいつもこいつに感心するのだった。辛いんなら辛いと言っていい、というのは簡単だけど、辛いといわれたところで、俺にはなんにもしてやれない。俺はいってみれば、大事な大事なご主人様を唆して出奔した犯人なわけだしな。まあ、俺もこいつも、それについては全然気にしてねえけどさ。

「そうだったな」

郁人はそうして、なにかとても愛おしいものを慈しむような、ひどくやさしい声で頷いた。なにか返事をするのも憚られるような声だったから、俺はだまって頷いてみせる。俺の手を解放した郁人が、ちいさく笑った。

「…明日は早いぞ。…おやすみ、洸」
「……お前を起こすの、だれだと思ってんの」

決まりが悪そうな顔をした郁人が、狭いソファの上で寝返りを打つ。ちょっと笑ってしまいながら、俺も郁人に背を向けて、反対側にあるソファに横になった。

「おやすみ、郁人」

お前が次に見る夢は、たとえば探偵として縦横無尽に活躍するような、そんなものであればいい。口には出さずに心だけで思って、俺は慣れない天井を見つめる目を閉じた。










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