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疫病が本格的にムラに蔓延しだしたのは、ちょうどスグリが病床から離れたころだった。かれは風邪を引き込んだことが幸いして感染した人間と接触する機会がなかったせいか、今のところは元気そうにしている。矢文でもって続く連絡をみるたびに、シルヴァはひどく困惑をした。

この病に利く薬が、見あたらないらしいこと。逼迫した状況にある患者が幾人もいるということ。かといってシルヴァにできることなど、皆無といっていい。今ばかりは弓の腕も狩りの技術もなにも役に立たなかった。

ぱちぱちと音をたてる暖炉のそばに、スグリが座っている。届いた矢文を読んでいるらしい。心配そうな顔で窓のそとを見やるかれは、ようやく平素の体調に戻ったところだった。

「スグリ」

隣に座る。手を伸ばしてスグリの肩に触れると、かれは弾かれるように視線をシルヴァのほうに向けた。

「シルヴァ…」

不安そうな瞳を見つめ、シルヴァは暫し思案に暮れた。
この冬の凍り付いた山で、もう行商人たちがムラに来ることは望めない。アザミが望みをつなぐ薬草は、このムラには蓄えがなかった。だとすれば。

だとすれば出来ることは、このムラを出て、違うムラに救いを求めることだけだ。

「…」

自分に出来ることははっきりとわかっているくせに、それをするのは怖い。それをするのは自分ではなくてもいいんじゃないかと思ってしまうのは、シルヴァ自身、驚くべきことだった。

恐れたことなど、これまでになかった。こんなに背筋が凍るような恐怖に怯えたことなどなかった。…目の前の現実から目を背けたくなったのはこれが初めてだった。

「…シルヴァ?」

スグリを、失うのがこわい。
分かっていた。かれを連れてかれのムラへと行き、疫病の波が過ぎたであろうそこで薬を分けてもらう。それが自分に求められていることであると、シルヴァはすでに理解はしている。けれど、こわかった。
今回のスグリの風邪で、シルヴァはそれを思い知った。身を凍らすような恐怖は、いつもシルヴァのすぐそばにある。

どうしようもなくて抱き締めたスグリの肩は薄くて頼りない。このままここに留め置いて、何の対策もなしにいつかスグリが疫病に罹患してしまったらどうなるかなんて、シルヴァはとっくに分かっている。それでもそれを口に出せないのは、シルヴァがスグリを失い難く思っているせいだ。かれがかれのムラに残した家族を見て、そのあおいろを陰らせることが恐ろしいからだ。

「…なにか、あった?」

シルヴァのようすがおかしいことに気づいたらしいスグリが、そう囁きながらその緋色の長髪を指で梳く。間近で見たスグリの瞳はやはり晴れ渡る青空のような輝きを持っていた。

「スグリ」

そっと額を重ね、頬を寄せる。子供を宥めるようにシルヴァの後頭部を掻き抱いたスグリの腕は骨張っているれっきとした男のもので、力はないにせよかれが自分と同じ男であるとしらしめる。自分が綿雲のように消えてなくなってしまうものではないと、伝えているようだった。

「…何があったの」

静かだけれど有無を言わさぬつよい意志を湛えた声で、スグリが問いかける。まるで、シルヴァの胸に蔓延る不安を取り除こうとでもするような、そんな声だった。はぐらかすことを許さないとでもいうふうな意志の強い目に見つめられ、シルヴァはしばし瞠目をする。

「スグリ」

覚悟を決めて、シルヴァは静かに息を吐いた。一緒にスグリのムラに行ってほしい。今なら、言える気がしていた。…きっとスグリは頷いてくれる。そしてその後にシルヴァと共にこの家に戻ってくると、言ってくれる。頭では分かっているのにこころが恐怖に震えるのは、シルヴァが初めて知ったなにかに執着をするという感情を持て余しているせいかもしれない。スグリの瞳が、陰るのがこわい。

「…スグリ」

そう声を震わせ、かれに訥々と話すシルヴァの姿は、かれの瞳にどう映っているだろうか。頼りなく、不安なものに見えはしないだろうか。シルヴァはスグリに伝わりやすい言葉を選ぶだけでなしに言葉を時折切って黙り込みながら、それでもなんとか伝えるべきことばを伝えきった。

「…うん」

スグリの強さというものは。
シルヴァには到底及びもつかないようなところから湧き出てくる、その心の強さというものは、いったいどういう形をしているのか。シルヴァは、触れて確かめてみたい気持ちに駆られることがよくあった。

迷うそぶりもなく笑いながら頷いて、かれはシルヴァに先んじて腰掛けていた椅子から立ち上がる。

そして言うのだ。

「…だいじょうぶ、もう、風邪は治ったよ」

かれがかれの意志でここにいるのだと、シルヴァの胸にくすぶった不安を吹き飛ばすような明るさで。…心配していたのは、そのことよりもむしろ。そんなことをわざわざ口に出す必要は、もうなかった。

「そうか」

手を伸ばしその身体を捕まえる。やはりスグリの身体は薄く頼りなかったが、かれはシルヴァの影に隠れ、守られているだけの存在ではない。こういったときに、シルヴァはそれを思い知らされるのだった。

「支度を、しないとな」

冬の道と森の中に隠された集落の探しにくさを考えれば、雪原の中で夜を越すことになる可能性は十二分にあった。十分な装備なしに飛び出していくことは出来ない。けれど一刻も早く薬を手に入れてこなければ、手遅れになる患者もいるかもしれない。両肩をつかんだままのスグリは、しっかりとシルヴァの瞳を見つめ返して頷いた。











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