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「……」
「………」

……朝っぱら(とはいってももう十一時)から爽やかでない行動を取った俺に、伊鶴はさっきからおろおろしっぱなしだった。口を濯いで胸につかえていたもの(物理的に)を吐き出してすこしすっきりしたはいいけれど、予想もしないパターンで伊鶴が目の前にいるので、俺もおろおろしてる。そんなわけで会話もなし、俺たちはせまい部屋で向き合って座っているわけだった。

「…」
「……けんと、だいじょうぶ?」

胸やけと頭痛で死にかけの俺に、そっと伊鶴が声をかけてきた。それでようやっと会話の糸口を掴んだ俺は、大丈夫なんともないよって平然と嘘をついて本題を切りだす。それはもう、昨日まで考えていた、これから友達として伊鶴と上手くやっていくことよりもずっと大事なことなわけで。

「…昨日、俺なんか変なこと言ってなかった?」

ダークグレーの瞳はいつも通りぼんやりと淡い光を宿し、困った風に俺を見てる。伊鶴は相変わらずだ。何一つ変わっちゃいない。まるで卒論の徹夜明けのときみたいだな、と俺は懐かしく思う。伊鶴には何度も助けてもらったっけ。

「…変なことって、何」
「……変なことだよ。酔ってたから、覚えてなくて」

だから、忘れてほしい。たとえば俺がお前のことがまだ好きだとか、ずっと好きだとか、そんなことを口走ってしまっていても。最後まで口にすることは、俺には出来なかった。僅かだった距離を詰めた伊鶴の腕が、俺の肩を掴む。弾かれるようにその顔を直視する羽目になって、俺は思わず息をのんだ。相変わらず伊鶴は不器用で、なのに俺のことを不器用なりに気遣ってくれるところも変わっていなくて。相変わらずで、そんなところが伊鶴らしいなと思う。

凄く好きだった。男同士とか周りの目とか将来設計とか何にも考えないで済むくらい、伊鶴のことが好きで、好きだった。そんな気持ちを鮮やかに思い出す。燻っていただけの俺の二年間はまるで熾きだ。それに火がつくみたいに、二年前の失恋は簡単に再燃をした。

「…健斗」

泣き出しそうな、困ったような、そんな小さな声で伊鶴が俺の名前を呼ぶ。

「おまえは、ずるい」

ダークブルーの瞳は大きくゆっくりと瞬くと、まるで睨みつけるように細められた。それを呆けて見ながら俺は、ああ俺は睨みつけられているんだ、と思う。伊鶴がこんな顔をするのは初めて見たような気がする。他人に興味すらあまりもたない伊鶴がこうして感情をむき出しにすることは滅多になかった。ましてやこんなふうに、怒りだとか苛立ちをまっすぐぶつけてくるなんてことは。

…少しは人づきあいにも慣れ、感情を表に出すようになったのかもしれない、と俺は微笑ましく思う。勿論今現在伊鶴に俺が睨みつけられてるっていう事実は変わらないわけだが、少なくとも俺が受け取っているのは痛みや悲しみやもどかしさだけじゃない。よかったな、と思う。

分かってたんだ。俺がいなくたって伊鶴はひとりで生きていくし、たった一瞬、数年間だけ人生が交差しただけで、そんな特別な存在になんかなれないってことくらい。こうしてそれを直視して、俺はほっとしている。

俺は、伊鶴が俺が知らない間に変わったことに、これ以上ないくらいに安堵している。

「…そう、かな」
「ずるい」
「…そうかもな、ごめんな」

のらりくらりと伊鶴の泣き出しそうな声をあしらう。どうして伊鶴に変わっていてほしかったのか(それとも、ほんとうはそう望んでいなかったのか)すぐにわかった。

俺は、変わった。

もう俺は、関係が壊れるかもしれないと思いながら思いを伝えるなんてそんなことは出来ないんだと思う。ていうか出来ない。無理。もし今の俺だったら二年前、俺は絶対に伊鶴に好きだなんて言わなかった。打算と計算をたくさんして、卒業しても飲みにいこうとか遊びにいこうとかそうやって笑いかけてた。まるで下心なんて一ミリもありませんなんて顔が出来た。そんなことより、伊鶴の一番そばっていう立ち位置を手放すことがこわかった。もう手放してしまったそれを手にしようと画策している俺はずるくなったなと思う。見ていないようでいて、伊鶴は俺のことをよく見ている。そんなことにすこしうれしくなった。

「…なのに、きゅうに電話してくるし」
「ごめん」
「……話すっていったのに、潰れるし」
「悪かった」
「………全然思ってもないくせに、謝る」

これじゃ、いつもと逆だな。いつもなんてもう手が届かない遠くにあるのにそんなことを思って、俺は笑う。伊鶴はいつも俺の言葉に相槌をうつばかりだったけど、その横顔は僅かながらに色々な感情をうつしだしていたなと思いだす。伊鶴の訳す文には大きな装飾はなかったけれど平坦ではなかった。伊鶴そのものみたいな文だった。端々から読みとれる僅かな感情を探すのが好きだった。伊鶴のことがまだ好きだ。だから俺はずるくなる。伊鶴の知らない俺でいる。まえみたいになんの打算もなく、屈託もなく伊鶴に笑いかけることができた俺に嫉妬をする。

「俺は、お前とずっと友達でいたかったから…」
「…うん」
「…なのに、ぜんぜん連絡くれないし、…連絡とれないし」

伊鶴が俺の前のアパートを訪ねたことを思い出し、すこし良心が痛んだ。俺は伊鶴が俺を探すなんてことはちっとも考えていなかった。俺が伊鶴を訪ねない限り、決してもう会うことはないと勝手に決めつけていた。エゴだ、と思う。友達には戻れないくせに、そばにはいたい。それはただのわがままだ。ずいぶんとずるい大人になったものだと思う。俺はけっこうやさぐれたらしい。年をとるっていやだな、と思った。








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