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「…何かあったのか?」

アルが普段仕事をしているのは、俺の部屋のとなりにあるアルの自室だ。店より広い俺の部屋よりさらに広い。どうなってるんだろう。部屋の中でさらに部屋が何個かあるのってどういうこと。
その一番奥にあるいわゆる仕事部屋にアルはいた。国を左右する書類をチェックしてサインしているらしい。こんなに忙しいなら、週1で店まで忍んでくるのもそうとう大変だったろう。なんて思いながら、俺はそばにある椅子に座ってバケッドを薄く切る作業に没頭していた。バターを塗ったりチーズをのせたりするのに夢中です、という顔をして、白々しく答える。

「何事もない」
「嘘をつけ。お前の嘘はすぐにわかる」

俺は長く細く息を吐いて、バケッドの皿をアルに突き出すついでに広い窓の方へと寄った。下町が見下ろせる磨き抜かれた大きな硝子に、離宮にいるきれいなひとたちにも、ましてや王族のみなさんにも並ぶべくもないみすぼらしいパン屋の息子が映っている。しかもここは下町ではなかった。王宮だった。

「エリオット」

椅子から立ち上がったらしいアルが、硝子の端に映る。背だって俺より高くて足だって長くて、キラキラ綺麗な王様だ。結構いろんなことを知っているつもりだったけど、俺はその実アルのことを全然しらないのかもしれない。形式上は俺を後宮にした人だっていうのにだ。

「エリオット、どうしたんだ?」
「なんでもない!」

肩に伸ばされた腕に触れられるのが耐えられなくて、俺は身を翻してアルの手の届く範囲から飛び退いていた。そのままなにかを叫んだアルに構わず部屋を飛び出して、それからひどく後悔をする。さいあく。
いったい俺は何にこんなに動揺をしているんだろう。アルやレオンくんのことを何もしらなかったことに気付いたから?それとも、自分がアルの後宮にはあまりにも不釣り合いだと気付いたから?

「エリオット、どうしたんだ」

ガチャリと背後で扉が開いて、俺はびっくりして飛び上がった。どうしてこんなときにまで、やさしくするんだろう。俺はただ、形だけの後宮なのに。いうなれば身の潔白を示す証でしか、無いのに。なんで、やさしくするんだろう。期待してしまう。ばからしい。

「なんでもないって言ってるだろ!」

俺はやさしくない。ただ、パンを焼くことしか出来ない、ただの平民だ。アルと親しくなったのも偶然が重なったせい。それだけ。ましてや、アルのたったひとりの後宮には、愛する人には、あまりにも不釣り合いだ。

アルには申し訳ないと思いながら、俺は開きかけた扉を思いっきり閉めた。そのまま勢いよく長い廊下を駆け出す。あとで何て言い訳しよう、そんなことを考えながら。


どうやって厨房まで戻ったのかいまいち覚えてない。思いっきり泣きわめきたいような強がっていたいような気分で、俺はパン生地をこねているであろうレオンくんの元へと戻った。きっとかれは聡いから、兄とおんなじことを尋ねてくるんだろうと思いながら。

けれどそれは違った。

「来ちゃだめだ!エリオット、逃げて!」

厨房の厚い扉を開いたさきに待っていたのは、ナイフを手にした男がふたりレオンくんを追い回しているという異様な光景だった。さっきまでのモヤモヤした感情なんていっきに吹っ飛んで、あわてて俺はレオンくんのもとへと駆け寄る。

「何があった!?」
「こいつらがいきなり入ってきて…、エリオット、逃げて!」

泣き声でそういうレオンくんを背に庇い、俺は調理台を挟んでにらみ合うことになったふたりの男を見た。どちらも見たことのない顔だ。だけど俺が知ってる城の人なんてごく一部だから、もしかしたら内部の人なのかもしれない。とにかくわかるのは、味方じゃないってことくらいだ。

「とりあえず、レオンくん、ここから出て助けを呼んできて!」
「そんなのだめだ!きみが殺される!」

前略、おばちゃんたち。本当に怖い戦場は後宮ではなく、厨房でした。

現実逃避をしても無駄だってことくらいはわかってる。とりあえず挟み撃ちするらしく動いたふたりのうちの片方に、手元にあった小麦粉をボウルごと投げつけた。むせているあいだに、もうひとりが振り下ろしたナイフに、とっさにつかんだ麺棒で応戦する。あの日兄貴を殴り損ねた分も思いっきりだ。

「ぐっ…」

思いっきり頭を殴ったら、そいつは勢いよく昏倒した。さすが俺。かっこいいぞ俺。やっぱり兄貴の運のよさはハンパないらしいな。なんて間の抜けたことを考えていたら、もうひとりがいるのをすっかり忘れていた。慌ててレオンくんを背後に押しやって、どうやら小麦粉まみれでなにがなんだかわかっていない男がナイフを振り回しているのから逃げる。麺棒が血で滑った。

「エリオット!」

レオンくんの悲鳴が上がる。レオンくんを庇った拍子に、麺棒を滑ったナイフが俺の腕を斬り裂いていた。痛みはあんまりないのは、多分アドレナリンの作用だろう。

もう俺の胸には、理屈とかそういったものは一切残っていなかった。あるのはただ、恐怖と、それから。

「アル…ッ!」

俺が拒絶したかれに救いを求める、浅ましいまでの感情だけだった。本当は、証としてではなく、ただ理由なんかなく後宮に選んでほしかったのかもしれない。ばかみたいだ。いつからだろう、きっと後宮にする、と理由を示す言葉ひとつ無いままにいわれたあの日から俺は、アルに対する感情が少しずつ好意になることを頭では理解していた。
だから怖くなって、先回りをした。みんなを納得させなくちゃならないから、なんて理由聞きたくなくて自分で自分の気持ちをすり替えていた。でも、俺は今では誤魔化すことも出来ないくらいに、俺は、本当は。

「っ…」

本当は、アルのほんとの後宮になりたかったんだ。

なんとか麺棒で応戦してるのはいいけど傷は増えてくばかりで、手は血でぬめるし最悪だ。でもまだ駄目、レオンくんに何かあったら本気でアルに合わせる顔がない。いまさら合わせる顔ってのもおかしい話だけどさ。

小麦粉まみれの顔で襲いかかってくる男になんとか反撃できないもんかと思いながら、俺はある種の決意が胸を占めるのを感じていた。こいつをどうにかして、レオンくんを無事なとこまで送ったら、アルにごめんって言おう。ごめんもうむり。もう後宮のふりはできないって。俺には専属パン職人のほうが似合ってるって。

「エリオット!」

クラクラする頭を叱咤して、せめてレオンくんの前では胸張ってようと麺棒を握り直した俺の腕を、誰かが掴んだ。強く。

そのままの勢いで引っ張られ、力なんかほんとはとっくに入らない指から麺棒が落ちて、ちょっとした血だまりが出来てるのが目に入って、こんなに血が出たのかって思うともう駄目だった。なんとなく俺を呼んだ声がアルのものに思えて、そのせいで安心してしまったのかもしれない。足から力が抜けて血だまりに膝をついた俺を誰かがもう一度呼んだような気がしたけど、もうなにもわからなかった。





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