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手袋を嵌める





綺麗な人だな、といつも思っていた。所作も横顔も俺に触れる手指も笑顔も、どれもがいつもうつくしかった。汚い世界に居た俺がそんなかれに惹かれたのは当然だったと思う。かれはまさに、ゴミ溜めの世界に差し込んだ光だった。

「…おはよう」

朝の日差しがカーテンの隙間から差し込む。いつも通りの時間に俺を起こしにくるかれは、いつもと同じ調子でそう朝の挨拶をする。俺はこの豪奢な部屋で目覚めるたびに、この見渡すのが大変なくらいに広い部屋でかれの姿を探す。最初のうちは天蓋なんかもついていたベッドはずいぶんと簡素な造りに様相を変えていた。これですぐかれの姿が目に入る。

「おはよう」

ベッドから身体を起こす。まだ頭の芯は痺れたように眠気を訴えていたけれど、少しでもかれを感じたくて素直な俺の意識は急上昇してる。

「よく眠れたか?」
「…うん」
「そっか。…そろそろ飯も来るから」
「…あんたは?」

俺のような状態のことを盲目、と呼ぶのだそうだ。俺がまだこんな豪邸なんかと縁がなく、犯罪まがいの組織に身を置いていたころからの友人は、俺を盲目だと笑った。どうやら盲目というのは、あまり褒められる状態ではないらしい。
幼いころに誘拐されたらしい俺は、その誘拐組織に支払われた身代金を強奪した強盗グループのもの好きのオッサンに一緒にそのまま連れ攫われた。つまりは二次誘拐ってやつだ。こうなるともう警察もお手上げで、極秘に何億って金が動いたらしいが、俺は十年以上見つからなかった。それが偶然に掴まったときに血液検査をされ、この家の主人一家との血縁関係が明らかになったってんでこうしてこんな豪邸に連れて来られている。すべてが伝聞でしかないってのは、誘拐のショックのせいで俺に一切の記憶が残っていないからだ。

最初こそ俺は暴れまくって、こんなところに来るくらいなら路地裏で盗みでもしてたほうがいいって言ってお偉いさんどもを困らせた。でも、数日経ったある日のことをきっかけに、俺はあっさりと決心を翻したわけである。
そのときのことを、俺はよく覚えている。薄汚い警察の留置所の、寒い独房に座って外の騒ぎが何かも知らずにふてくされていた俺のそばに、身なりのいい男が血相変えて駆け込んできた。何事かって身体を起こした俺に、もどかしく独房の鍵を開けた男が勢いよく抱きついてきた。嗅いだことのないいい香りもつややかな髪も涙の膜が張った深緑の瞳も、どれもがとてもきれいだと思った。

「…よく、生きて…」

俺を抱えてわんわんと泣いたその男、いま、甲斐甲斐しく俺を着替えさせているかれ、は俺の乳兄弟だという。俺よりいくつか年嵩で、小さい頃から俺の子守りをしていたのだと、かれは自分で名乗った。俺は全然覚えていなかったけど、かれを落胆させるのがいやで、曖昧な答えをした。そうだったな、とか、そんなふうに曖昧に頷けば、かれは勝手に泣きながら頷いた。

あまりにかれがきれいだったから、俺はもう、かれに逆らうなんて選択肢を持ち得なかった。かれを悲しませるだとか、その表情を翳らせるだとか、なんにも考えられなかった。かれが笑うように動き、かれが喜ぶように振る舞う。それが当然になった。

そのままかれに言われるままにこうしてこの場所で後継者として育てられることになったのも、ぜんぶかれのためだった。俺が全く見覚えのない、遺伝子情報でしか繋がりのない両親に願ったのは、かれを自分のものにすることだけだった。両親は反抗的で後継ぎにするのは絶望的だと言われた俺の変わりように感涙をして手を取り合い、二つ返事で頷いた。そうして俺は、かれを手に入れた。

「…じゃあ、俺もここにいるよ」
「うん」

吐き気がするほど面倒くさい色々な勉強も、かれが教えてくれるから必死になってやった。問題をひとつ解くたびに微笑んでくれるかれが見たくて、すぐに上達をした。やっぱりわたしたちの坊ちゃんだ、とメイドや執事たちが喜んでいたが、そんなことはどうでもよかった。かれが笑って褒めてくれれば、それでよかった。

ネクタイを締める手付きも慣れたものだ。最初は背中から前に腕を回すようにして、自分に締めるみたいにしなきゃ出来なかったかれも、最近はこうして前から簡単にきれいにネクタイを締めてくれる。ちょっと名残惜しいけれど、かれが喜んでいたからよしとしよう。

誘拐されたときの怖い夢を見るから、と嘘をついたこともあった。ここに来るまでは周りにたくさん人間がいたから、と我儘を言ったこともあった。色々な理由をつけてかれと一緒にいる時間を増やそうとした。はいはいといつも、かれは簡単に言うことをきいてくれた。

それが崩れかけたのは、後にも先にもたぶん、あの一回きりだろうと思う。結婚するんだ、といって、照れたようにはにかんで笑ったかれは、昔からの婚約者とようやく式を挙げることになったのだという。一週間の休みがほしいと言ったかれに俺は二つ返事で頷いた。おめでとうと笑ってやった。もちろん、そうすればかれが笑うから。嬉しそうに。
そんなフィアンセとの婚前旅行でかれの可哀そうな花嫁が強盗に胸を撃ち抜かれたあと、俺はほくそ笑む口元がかれに見えてしまうのではないかととても心配した。したんだけどそれはまさしく杞憂だった。かれは泣きじゃくってばかりで、俺の顔もまともに見られなかったから。

かれが勉強を教えてくれたから、俺は賢くなった。どうすればかれにすらバレないようにこっそりと外の世界と連絡を取るのかだって自分で考えたし、旧友に最新型の銃や身元のバレないパスポートを用意するのだって簡単に出来た。ぜんぶかれが教えてくれたことをベースにした。泣きじゃくるかれはほんとうにきれいだった。俺のために流される涙ではないことがすこし残念だったけど、それを補って有り余るくらいには、俺の背中に痛いくらい爪を立ててしがみ付くかれはうつくしかった。

「ほら、出来たぞ」

あの一件があってから、かれはますます過保護になった。もともと坊ちゃんに甘すぎる、と散々言われていたかれだけど、理由は明らかだったから、皆何も言わなくなった。それからしばらく経って、いつも通り昔の夢を見るなんて平然と嘘をついてかれと夜を過ごすたびに、少しずつかれの頭から過去の悲劇のことが消えている。その薬指に、指輪はもうない。

俺の礼服を整えて、うれしそうにかれが笑う。何にも知らないから、ただただ嬉しそうに笑う。俺しか持ってないから、俺に笑う。俺はそれが、たまらなくうれしい。

「ありがとう」

俺がきれいな花の咲いた温室に踏み込んだのか、それともかれはかわいそうに俺の前の花瓶のために手折られてしまったのか、分からないし分かりたくもない。だけど一つ分かるのは、汚れた手で触っても、きれいなものはきれいなままだ、ということだけ。

なにもしらないかれは、俺にきれいな笑顔を見せてくれる。












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