Beyond Good and Evil 16 「――こ、この教会から、勇者が出たぞ!」 茫然として眼を開けた。あれほど痛かった腹がなんともないことにまず驚いて、なんでまたこんな、見慣れて見飽きた愛すべき孤児院の天井を見てるのかわからなくて混乱する。 俺は確かに、こんどこそちゃんとあいつを守ったはずだった。 あいつに黒魔導を使わせることもなく、魔王が遺されたあいつを殺せないくらいには痛めつけ、ああ、ただ、殺すことはやっぱり出来なかったけれど。これじゃノアと一緒じゃねえか、俺だって命をかけたって、魔王と刺し違えることすら出来なくて。 ―――そうだ、そして。あの馬鹿は、愛しくて愛しくてたまらない、どんなときだって強い勇者さまは、なにをした? あの清廉潔白なノアは、満足して死のうとしてる俺を抱えて、あの魔王の甘言に頷きはしなかったか。俺が一度あいつを喪った時に躊躇わずにそうしたように、なんのためらいもなく罠かも知れない誘いに飛びつきはしなかったか。…そして俺がそれを覚えたうえで、こうしてこの固い寝台で寝てるってことは、つまり、そういうことなんだろう。 「……」 あのときと同じように、あいつが泣きそうな顔をして窓から部屋に入ってきた。逆光になったその瞳に浮かんでいる涙は、…俺が視た前のとは、ちがういろをしているように、俺には見える。さいしょも、二回目も、こいつはちゃんと我慢していた。死ぬために旅をさせられることになって、それで俺に縋りたくて縋れなくて、そんな表情だったのに。 いまのこれは、ちがう。 「……おまえがこれをくれたとき、ほんとうに、うれしかったんだ」 立ちつくすことなく躊躇わず俺の上に飛び込んできたノアが、俺の襟首を掴んでそう声を荒げた。その胸には今この時のこいつが持っているはずがない、俺が苦労をして探してやった魔法を封じる呪われた首飾りが輝いている。ふいに目を落とせば、俺の手首にはこいつがきれいに笑いながら俺に付けた、呪いのかかってないふつうのアクセサリがついたままになっている。 …あの時、あの場所で。痛みに霞む記憶の隅で、どうやら俺はなんとか生きていた。だからこうしてふたたび、この旅立ちの朝を繰り返しているというわけか。なんだか不思議な気分だった。…俺は生きているはずがなかったから。ノアと同じだ。死ぬために、あの旅をしていたのだから。 「俺は、…、俺は、お前が、きれいな世界でこれからも生きていってくれるなら、それでよかったのに」 恐る恐る腹を撫でてみた。痛みの記憶と裏腹に、そこには傷跡ひとつ残っていなかった。アフターケアもばっちりってわけか、あの得体のしれない魔王のやつ。…最後になにか言っていた、ような気がした。それは俺がノアを生き返すために迷わず魔王の条件を呑んだときとは違う、どこかふつうの人のような、そんな声だった。 「きいてるのか、レオン!」 「…そっくりそのまま返してやるよ。…俺は、お前を犠牲にして世界が平和になるなんて、認めねえ」 …お前のために俺は、魔王にだってなるところだったんだぞ。それがせっかく、誰にも迷惑をかけずに俺の命ひとつで事を穏便に納めようとしてたってのに。 「第一、なんで!なんで、知ってたんだ、あんなこと。俺はお前に気取られないように、すごく気を付けてた!神父さまに聞いたのか?」 「ちげえよ。…あーもうなんだ、とりあえず手を離せ」 きっと、あの魔王を、殺してやりにいかなきゃならない。それがせめてもの恩返しってやつだってことが、俺にはようくわかった。…似ている、と思ったから。俺と、あの魔王は、よく似ていた。最後に聞こえたあの声。たとえばもし、あの魔王が俺を唆さなかったら。ノアを喪った俺は、きっとあんなふうな禍々しいなにかになり果てていたに違いない。あれは、理不尽なノアの運命をやり直すことすら許されなかった俺だ。そう、思った。 「…嘘をついてたのは、俺も、お前も。だろう?」 俺のうえに座りこんだノアの顔がみるみる情けなく歪む。ふつふつとわき上がった涙が、こぼれおちそうになってその拳に乱暴に拭われた。その掌はまだ無茶な素振りのあとがしっかりと残っている。二度目の旅は、こいつがひどく辛そうだった。俺の足手まといだと言って、何度も無理をしていたっけ。俺にもそんなこいつを気遣ってやる余裕がなくて、きっと辛い思いをさせてしまっていた。 「ノア」 そっとその頬を掌で包む。唇を噛んで情けない顔をしたこの勇者さまは、やっぱりまだその身一つで片を付けようって思ってるらしい。…なあノア、お前だって、黒魔導を使ったって魔王を倒せはしないんだぞ。それにその首飾りは外れない。呪いをかけてやったんだ。ざまあみろ。 「お前を死なせたりはしない」 「…かわりにお前が死ぬっていうのか、そんなのだめだ」 ふつり、と湧き上がった涙が、再びその目尻を零れた。ノアは唇を震わせて、小さく俺の名を呼ぶ。俺は強くなったよ。…強くなった。あの日、お前をただ死なせるために戦っていたときとは、較べものにならないくらいに。けれどそれでも駄目だった。それならどうすればいいかなんてことぐらい、俺は知っている。 あの忌々しい魔王が、俺にそれを知らせるチャンスを、二回も与えてくれたんだから。 |