Beyond Good and Evil 15 「…どうしてだ」 熱を失った身体を抱きしめ、茫然と魔王を見上げても、なにも変わりはしなかった。微笑んで死んだあいつは目を閉じたまま。魔王を貫くはずの魔法はせいぜいその腕に軽い火傷を作った程度で、神官どもに言われていたこととはまるでちがっている。 「…」 騙されたのか。その言葉が俺の胸に閃いた刹那、俺を満たしたのはあいつを失った痛みではなく怒りだった。騙したのか。こいつなら魔王を倒せると嘯いて、あの孤児院の神官はこいつを生贄にしたっていうのか。…金のために。 「…悔やむのか、人間」 あいつの亡骸を抱きしめて、俺は暗澹と復讐の炎の凝った瞳で魔王をねめつけた。続けて魔王が言った言葉に、俺の決意は固まった。 腐り切った神官の連中を甚振り嬲り血祭りに上げながら、俺はいつしか泣いていたように思う。なんでもっと早くこうしなかったんだろう。なんでもっと早く気付いてやれなかったんだろう。あの旅でどれだけあいつは傷ついて、苦しんだというのだろう。 俺たちが育った孤児院は、炎に包まれている。神官どもが礼拝堂に隠し持っていた金銀を子供たちに放り投げ、これで生きていけと怒鳴った。ここにいるよりはずっとずっとマシだ。死なずに済む。 なんであいつだったんだ。 俺はそればかり考えていた。なんであいつじゃなきゃいけなかったんだ。争いが嫌いで優しくて、飯もまともに手に入れられないようなやつで。ああそうか、優しかったからか。途中で逃げ出してしまわないあいつがよかったのか。万が一生贄が逃げ出したんじゃ、もう金は貰えないからな。 振りかざした剣を寸止めにする。目の前で無様に震えている育ての親に、聞いてみたくなったから。 「…なあ、なんであいつだったんだ」 きっと今頃逃げまどう子供たちを抱え、守るために必死でいるだろうあいつ。もうお前を生贄に定めた証拠なんてどこにもない。お前は自由だよ、どんなものにだってなれる。死なずに済む。魔王を倒せると思いこんで、長い旅に出て、何度も死に掛けずに済む。 孤児院を作りたいと言っていたっけ。この旅の終焉が自分の死であると知っていたくせをして、俺の前ではいつも微笑んで、誰も飢えずに済む孤児院を作りたいんだと語っていた。お前ひとりじゃムリだろと笑えば、お前も手伝ってくれるんだろって、そうやって笑い返していた。あれが―――あれが、遺言だったのだと気付いたのは、あいつを喪ったあとのことだ。 「あいつ?……勇者のことか」 ひゅーひゅーと咽喉を鳴らしながら、それの仲間だったものの死体に埋め尽くされたこの礼拝堂で、それでも震える声で神官は答えた。聖職者とは思えないような屑だった。ここで育ったあいつのことなんて、金の鳴る木としか思っていなかったんだろう。 「本当はお前でも良かったんだがな、お前だったら逃げるだろう」 すでに男は狂っていた。ひゃはは、と耳触りな笑い声を上げながら、男はそれでも俺に立ち向かおうとした。杖を突きだし何か魔法を詠唱するのを、一撃のもとに斬り捨てる。 「…俺でもよかった?」 なんで俺じゃなかったんだ。ああそうさ、俺だったら生贄なんてなりたくねえし、きっとこんな汚ぇ場所とはオサラバしただろう。無理やりにでもあいつを連れて、きっとどこまでも逃げただろう。 なんで、俺にしなかったんだ。 あいつか俺かと言ってくれれば、俺は迷わずこの命を差し出した。途中の街であいつを放り投げて、ひとりで黙って死んでやったのに。なんで、俺じゃなかったんだ。 何度も何度も神官だったものを斬りつける。胸にせり上がる何かとても大きな闇が、ひどく煩い。すべてのものが憎かった。 「…!!」 俺の名前を呼ぶ声がするまでに、どれくらい時間が経っただろう。もう原型なんてなにも残っていない神官どもの死体のなかで、俺は茫然と立ちつくしている。なんで、どうして。そればかりが胸を満たしている。 咄嗟に振り向いた俺の目に映ったのは、きれいな瞳をまんまるに見開いて立ちつくしているあいつの姿だった。 見られた。 「…なんで」 ひゅ、と咽喉から悲鳴のようなものを迸らせて、あいつは震える声でそういった。生きているあいつにほっとして、けれどその顔が見たことがないくらいに絶望をしたそれだったから、俺は息が出来なくなる。 違う、そんな顔をさせたかったんじゃない。なんで戻ってきたんだ。怖がりのくせに。 「…お前が、やったのか?」 震える声が、そう尋ねる。どうしてこの状況でそれ以外の答えが出て来るのかわからねえけど俺を疑いきれないところが、こいつの甘いところだと思う。そんなところが、好きだった。どうしようもない甘ったれで、優しくて、どんな嘘にだってころっと騙されてしまう、お人よし。 あんな下らない理由で殺されたお前は、たしかに俺の光だったんだ。 「お前は死んだんだ、こいつらに殺された」 「…何を言っているんだ」 「お前は救世の勇者なんかじゃなかった。お前の黒魔導の才能は、そんな大層なもんじゃなかったんだ」 「……」 「孤児院を作るんだろう。さっさと行けよ」 血糊にまみれた顔で無理やりに笑ってやれば、あいつはわけがわからないといった顔をする。それも当然か、いきなりそんなことを言われても、きっとこいつは戸惑うだけ。だってまだこいつは、自分が勇者だなんて聞かされちゃいないんだから。 ステンドグラスを叩き割る。色とりどりの光のシャワーが降り注ぐ。部屋の入り口で立ちつくしたあいつが咄嗟に身体を強張らせたのを庇って立って、俺は広がる青空を見上げた。広い広い空だった。 「…俺でも、よかった」 てのひらを空に翳す。あいつが最期にやったあのどう見ても火力不足の黒魔導を、忘れたくても忘れられないあれを、ふいに再現したくなった。 俺でもよかったんなら。俺がかわりにあの魔王を倒していたのなら。 「…」 魔法陣が広がっていく。世界が一度崩れる間際に聞いた魔王の声が、耳の中にこびりついていた。 深淵を覗き込んだとき、深淵もまた、お前を覗き込んでいる。 「全てを壊す、力が欲しい」 俺の黒魔導の素質があいつのそれとは比べ物にならないくらいにあったってのは、ほんとうに、皮肉な話だと思う。 そうして俺は、魔王になった。 |