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「…伊鶴?」
泣きそうな顔に見えた。寄せられた眉も引き結ばれた唇も、まるで大学時代からそのまま抜け出してきたみたいに、当時のまま。触れられている箇所が熱い。けれど伊鶴がなにを言っているのかわからなくて、俺は呆けてその名を呼ぶことしか出来ないでいる。
何かを言おうと口を開いた伊鶴が、そのままその口を噤んだ。きゅっと眉を寄せて、なにかをこらえようとでもするようにその瞳を伏せている。けっきょく何も言えないで、俺はだまって伊鶴のつむじを見下ろした。
「えっと、その、久しぶり。…元気だった?」
盛大にどもりながらもなんとか俺はそんな社交辞令を吐き出してみる。この二年で社会人としてそれなりにひとと付き合ってきたし、編集さんやなんかと仕事でたくさん話しているから、俺は心を取り繕うことがうまくなってるみたいだった。でも、それはなんにも意味のないことだ。それでもって、伊鶴にはそれが分かってしまうみたいだった。
「…」
灰色の瞳が、無感動に俺を見上げている。まるで無言で責めたてられているようで、俺は思わず言葉を止めた。伊鶴はじっと俺の両の目を覗き込んでいる。腹の底まで見透かされているようで、少し怖かった。…伊鶴に感づかれたくはない。まだ俺は伊鶴のことが凄く好きで、それを取り繕ってもういちど友達としてやりなおそうなんて思ってるってことですら、その瞳には見抜かれてしまいそうで。
そういうわけには、いかない。声を聞いて、顔を合わせたらやっぱり俺は伊鶴が好きだったから。そして生憎なことに、もう、俺は告白をして玉砕をするっていう経験をしてしまっている。そしたらもう俺には、何食わぬ顔をして友達のふりをするくらいしか伊鶴と親しく付き合っていく手段は残っていないのだ。
「…健斗は?」
人が洪水みたいに行きかう駅じゃ、良い年した男が向かい合って黙り込んでても誰も目を止めたりしない。だけどまあ、呑み会の待ち合わせもあるし。そろそろ他の奴らも集まり始めるころだろうし。
「…元気だよ。…それはまた、あとでな?」
と理由をつけて、俺は伊鶴と向き合うのを先送りにした。駄目な奴だな、と思う。二年前からなんにも変わっちゃいない。俺の腕を痛いくらいに掴んだままの伊鶴はしばらく俯いたままだったけど、おもむろにこくん、と頷いて、ようやく俺を解放してくれた。
「…」
触れられた場所が熱い。
どくんどくんと波打つ心臓の音に、俺はやっぱり伊鶴が好きだなと思い知らされる。その心のなかにまだ俺が住んでいたことに喜ぶ自分がいて辟易をした。伊鶴が俺の名を呼んでくれることに、伊鶴の視界から消えた俺を心にとどめておいてくれたことにどうしようもなく喜んでいる自分は、すごく汚くて、ずるいと思う。
伊鶴はすこし戸惑ったように俺を見つめていたけれど、まえだったら何かしらの話題を振っていた俺が黙りこくっているせいか、どうしたらいいか分からないみたいだった。伊鶴は自分から話をすることがあまり得意ではないし、そもそもからして日本語よりも英語やフランス語のほうが堪能なやつなのだ。そんなところに付け入る俺はずるい、と思う。だって好きで、やっぱり好きで、どうしたらいいかわからないから。
「お、ふたりとも久しぶり!」
広がってしまった沈黙を埋めあわせてくれたのは、続々と到着した旧友たちだった。誰もかれも伊鶴と同じように二年ぶりに顔を合わせるやつらばかりで、なつかしい。ようやっといつも通り笑えた。
「伊鶴くん、ほんと変わんないねー」
「…そう?」
「あ、でもちょっと背伸びた?」
女の子たちにさっそく取り囲まれている伊鶴は相変わらず愛玩動物みたいな扱いをうけていて笑ってしまう。こうして遠くで眺めればああ伊鶴がそこにいるなって受け入れられるのに、直接言葉を交わすとなると駄目なのはなんでだろう。いやおうなしに最後にした告白を思い出してしまうからなのかもしれない。二年前の失恋を未だに引き摺ってるとか、我ながら気持ち悪い。
「おい、健斗お前なにぼーっとしてんの?」
「あー?ああ、べつに」
「今日はオールだぞ?そんなんで大丈夫かよ」
「一次会前からオール確定かよ…」
で、あんまり変わってない、かつて馬鹿騒ぎをいっしょにした連中は呑む気まんまんだった。まあ俺も、この呑み会のあとには伊鶴と向き合わなきゃいけないってわかってるから、気が重いわけで。それを晴らすのに絶好の手段が、目の前にあるわけで。
「…いっとくけど、俺、前よりけっこう強くなってるぞ?」
なんて言ってしまうくらいには、俺は臆病ものなのだった。