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郁人がはっと顔を上げ、窓の方へ駆けていく。その背を追いながら、洸は小さく舌打ちをした。何が起こったかは、郁人たちがいる方とは違うところから黒煙が上がっていることで理解できる。その奥に深紅の炎が見え始め、郁人がその顔を苦しげに歪めるのがわかった。

「…なにもかも灰塵と為す気か」

遺言書も、ミシェルの継ぐはずだったこの屋敷も、そこに残る財産の権利書も、すべて。ますます郁人は、ケイのやりたいことがわからなくなっている。なにも掴めないままにすべてが終わってしまいそうで、どこか怖かった。

「郁人」

けれどその肩に手を置いた洸は、ひどく落ち着いた顔をしている。はっとしてかれのほうを見れば、かれは口元だけをどこか寂しげに笑わせて、いった。

「分かんなくていいよ、お前は」

なにを、と郁人が聞き返すよりさきに。剣を握っていないほうの手で郁人の手を掴んだ洸が、同じように窓の外から火災の発生を茫然と見ている老執事とミシェルに声を張り上げた。

「付いてこい!」

そして駆け出す。大広間を出て、エントランスへ飛び出した。茫然と固まって話をしている探偵たち、なにが起こったかわからないでいるメイドや他の奉公人たちでごった返している。

「屋敷の外に逃げろ!出来るだけここから離れるんだ!」

死者を出さないためには、そういうしかなかった。出来るだけ、ミシェルからかれらを引き離さなければ。洸の手は、かれらをまとめて守ってやれるほど長くはない。

「洸!どういうことだ!」
「すぐにわかるから黙ってろ、舌噛むぞ!」

困惑したように声を上げた郁人にそう言って、洸は悲鳴を上げながら我先にと門を飛び出していく人間の間を縫って走った。ミシェルと執事が付いてきているのを確認し、先ほどの音の発信源を探す。

「この屋敷のボイラー室はどっちだ!」
「突き当たりを左です!」

悲鳴と怒号のなかで洸が怒鳴ると、息を切らせた執事が叫んでよこした。きっとまだ何が起こっているのか判断できないままのミシェルは、ついてくるだけで精いっぱいなようである。それも仕方がないかと、洸は内心で嘆息をした。

ここ数日で父が死に、きょうだいが死に、そして住んでいる家が燃えているのだ。喪ったものの大きさもさるものながら、それをしたのがケイだというのも相当な衝撃だろう。

…だが、かれにはまだ、もっと大きな苦しみが待っている。
……洸が、それを苦しみだと気付けたのは、僥倖だった。

「ここか」

眼前に聳えるのは炎の壁だった。火元はボイラー室だったらしく、派手に燃えている。

「…油の匂いがするな」

郁人が顔をしかめた。火の周りも、この分だと早いだろう。…雨が降っているとはいえ、一度付いた炎はそう簡単には消えはしない。この屋敷が焼けおちるのも、時間の問題と思われた。

「どうして、ケイが」

老執事が、茫然と呟く。めらめらと足元を舐める炎のせいでこれ以上進むことも出来ず、ただ後退することしかできなかった。もしかしたらまだケイがそこにいるかもしれないとは思ったが、この分ではそれも見込めそうにない。

「…不器用だったんだよ、たぶん」

郁人は炎の周りを検分しているようだった。絨毯に沁み込んだ液体はおそらく油かそれに準ずるものである。その視線が床から、そして壁へと移るのを、洸は見るともなしに見ている。

山の国の暗殺部隊。そこがどれほど過酷な環境であったかは知る辺はないし、洸は知りたいとも思わなかった。そこから逃げ出して、そして拾ってくれたミシェルの存在がケイにとってどのようなものだったかは、想像に難くない。かれの望みなら、なんでも叶えようと思ったに、違いがないのだ。

「洸!不味いぞ、これは着火剤のあとだ」

郁人が声を張り上げた。はっとしてそちらを向けば、郁人は壁に指を這わせている。そこに駆け寄ってかれが注視するところを見れば、なんらかの液体が線上に塗布されているのがわかった。見渡す限り、廊下いっぱいに、だ。

前もって用意をしてあったのか。
洸は今朝、ケイが上の階から降りてきていたのを目撃したことを思い出す。庭師がなにかをしているには、不自然だった。それがもし、このためだったとしたら。

「間に合わない、火がつくぞ!」

ボイラー室から出た炎が、その液体を舐めた。刹那、炎が壁に描かれた線にそって奔る。とっさに身体を引いた郁人のまえで、瞬く間に炎は長い廊下を抜けていった。

「…」

洸はすこしためらってから、老執事のほうを向き直る。かれはミシェルの肩を支えていたが、もうそれも長くは持たないだろう。このままでは、かれも危ない。

「おい、あんた!」

老執事ははっと顔を上げた。洸はその枯れた肩を掴み、炎が溶かした窓枠を見据える。

「走って逃げろ、悪いがあんたまで守ってやれない」
「ですが、ミシェルさまが!」
「あんたまで殺されちゃあ、ミシェルが保たねえぞ!」

そこまで聞いて、はっとしたのは郁人だった。ケイは、まだこの屋敷のなかにいる。かれの目的はと聞いて考えつくのはひとつしかない。ミシェルだった。

「…洸!」

腰に下げたレイピアを抜き、郁人は一息に窓枠を切り崩した。ガラスの割れる音が、やけに姦しく響く。

「私はケイと話をする!お前は逃げろ!」

その音にはっとしたのか、ミシェルがそう叫んだ。悲痛な表情をした老執事が、洸に手伝われて窓枠を抜ける。外に走ればもう、追っ手はこない。それは明白だった。

「見届けんのか、名探偵!」
「当たり前だ!…おれはまだ、何一つ分かっちゃいない!」

そう答えて、郁人はミシェルの腕を掴んで走り出した。ここでもたもたしていては、炎に呑まれかねない。それに先駆けて、洸が走る。煙が充満し出した館で、視界ははっきりとしていなかった。どこにケイが潜んでいるのかわからずに、けれどどこかにいることは分かったから、洸は叫ぶ。

「出て来い、ケイ!ミシェルはここだ!」

ミシェルを連れた郁人を背に庇う。煙と炎で、館はひどいありさまだった。炎は二階や三階へも廻っている。いつ崩れても、おかしくはない状況だ。…けれど洸がここに留まっているのは、確証があったからである。

もしも館が崩れるとしたら。
それよりさきに、必ずケイは姿を現す。無論、ミシェルの身を守るために。









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