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とりあえず脱稿して編集部に原稿を送って、もともと吸血鬼にそれほど造詣の深い人がいるわけでもないせいか珍しいことに一発オーケーを貰った。それが日付が変わったあたりのこと。ギリギリ午前中って時間に目が覚めたら夕方の呑み会に備えて準備していたら時間はすぐに過ぎ去って、もう待ち合わせの時間が近い。

ブラムの『ドラキュラ』は半ばまで読み進めたあたりで止まってしまっている。愛した女性が吸血鬼化してしまった三人の男たちは彼女の首を切り、心臓に杭を打ち込み、口にニンニクを詰めて埋葬する。それが吸血鬼としての彼女の復活を防ぐのだという。こういった仕事をしていると嫌でも全国の妖怪や都市伝説の類には詳しくなるし、くわえて本職は(自称)古い神話の研究家であるから、こういったゴシック小説を読むと様々なところに古い伝承や神話へのオマージュが感じられて面白かった。

大学生だったころはよく俺の家か伊鶴の家でごろごろしながら古い本を紐解いたものだ。俺の両親は海外で本を輸出したり輸入したりする仕事についていて、俺が興味を持ちそうなものがあると時折段ボールいっぱいに本を詰めて送ってくれていた。大抵は英語かフランス語、ドイツ語で書かれた原書だったから、俺は辞書を片手にちまちまとそれを読み進めることが好きだった。けど仏語はほんとうに苦手で、あればっかりは伊鶴がいてくれないと読めなかった。伊鶴のあの独特のリズムの声がまだ耳に残っているようで、俺は胸やけにも似た感情に胸を塞がれて呻く。

もしあの時、好きだなんて言わなかったら。

何度も考えたことをこの後に及んで後悔しようとして、俺はそうそうにそれを諦めた。考えるだけ無駄なことだ。もう二年の年が流れてしまっている。時というのはこの世でもっとも不可逆なもので、覆水盆に返らずとはまさにこのことである。俺は伊鶴に恋をして、告白をして、そして断られて、逃げた。その事実は決して覆らないものとして歴史のなかに書き加えられてしまっている。そしてつみかさなった二年間の質量を、俺はまだ知らない。

夕暮れの駅前は人でごった返していた。疲れた顔で都心から帰ってくるサラリーマンたちがほとんどだ。そのなかをすり抜ける俺。目印の下に立っている影を、俺の目は正直なことにすぐに拾い上げた。色素の薄いグレーに近い色をした髪が、夕暮れのひかりに透け見えている。いつも伊鶴を見るたびに、その不思議な存在と触れ合う度に、どうしようもなく胸が高鳴ったことを思い出す。すきだった。いまも、すきだ。変わらず。取り残された思いは決してなくなっていたわけではなかった。こころの奥の、掘り返すのが怖いような場所に、大事にしまってあっただけだった。

「…けんと」

大学生だったころから使っているメッセンジャーバックを提げた伊鶴が、顔を上げて俺の名を呼んだのが聞こえた。呑み会らしくラフな服装をしているけれど、纏う雰囲気は昔とおなじだ。そこにはまだ月日によって生じる、俺の知る伊鶴との差異は見受けられなかった。

「い、づる」

思わず、雑踏のなかで立ちつくしてしまう。伊鶴がめのまえにいる、という事実を俺が認めるまでに、しばらくの時間が必要だった。だって伊鶴がそこにいるから。あれほど一緒にいたのに、二年間、顔を見ていなかった。けれどそんなのが、まるでうそみたいに、伊鶴は変わっていない。久しぶり、元気だった、言いたいのに声が出ないのは、俺がまざまざとあのとき抱いていた恋心を思い出していたからだ。

それは、俺がきのう思ったような、穏やかな感情では、けっしてなかった。
友達になんて、戻れない。ただの友達で、肩寄せ合って笑い合って、それで満足できるようなものじゃなかった。だから俺は、伊鶴がそれを望んでいないと知っていた癖に告白をして、あっさりと振られてしまったわけだけど。伊鶴のことが、好きだった。そばに居たい、触れたい、もっと知りたい、という欲。伊鶴のことを知っているのは俺だけでいいなんていう子供じみた独占欲。あのころ俺のなかに渦巻いていたものが、二年という月日で堆積されたものの下で蠢いているのがよく分かる。唇が戦慄いた。平然を装ってかけるはずだった言葉が、違う、もっと醜い言葉に刷り変わってしまうような気がして声を出せない。

足を進めてはいけないような気すらしていた。これ以上伊鶴と近付いたら、手を伸ばせば伊鶴に触れられるような距離にいってしまえば、俺は。

「健斗」
「!」

腕を掴まれる。はっとする間もなく、つよく引き寄せられた。俺よりも小柄なのに、びっくりするほどその力がつよい。思わず半歩踏み出して、俺は目を見開いた。俺の腕にかかった手。紛れもない、伊鶴の手だ。

伊鶴が、俺をじっと見つめている。

「…なに、してるの」
「…え?」
「……健斗は、なにをしてたの」

立花伊鶴という人間は、相変わらず、淡い色をしている。祖母の血が強く出た抜けるような白い肌も、ゆるくウェーブのかかったグレーの髪も眠たげなダークブルーの瞳も、俺のしる伊鶴と少しも変わらない。なのにその口から弾丸のように矢継ぎ早に吐き出された言葉が伊鶴らしくないせいで、俺は盛大にうろたえた。






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