Beyond Good and Evil 14 魔王がくぐもったうめき声を上げながら、レオンの胸から剣を引き抜いた。肉が裂ける嫌な音がして、レオンがその場に崩れ落ちる。そこへ駆け寄った俺はかれを抱き起こし、涙でぐしゃぐしゃになった視界で何度も何度もその名前を呼んだ。…いつだって苦笑いしながら返事をしてくれたレオンは、いつまでたっても俺の名前を呼んではくれない。眼を閉じたかれの顔は穏やかに微笑んだまま、すこしも動こうとはしなかった。 「…レオン、レオン…?」 なんにもわかんないまま。俺がきのうあげたあのブレスレットだって、何の効果も齎さないまま。俺がほんとにほんとの勇者だったら、世界を救えるような選ばれた勇者だったなら、こんなときこそ効果を表すはずの、それ。何にも出来ないまんま、レオンは動かなくなった。こんな傷を負ったら、俺の黒魔導の回復術をもってしたって延命は無理だ。そんなこと、見たらすぐにわかる。なんで。 「…く、なかなかやる」 レオンの剣を胸から生やしたままで、荒い息の魔王が喋った。俺は茫然としたまま顔を上げる。魔王はまだ、生きていた。レオンが刺し違えたはずの魔王は、生きている。殺さないと。…俺は、勇者なんだから。 …なんで、こんなことになっているんだっけ?ほんとうは死ぬのは俺のはずで、だから。 だから俺はこの旅をしていたんだ。…黒魔術を使うのが俺でなくてレオンなら、俺はどんな手段を使ったってレオンを止めていた。俺は、レオンに生きてほしかったから。輝かしい未来を、俺が守ったさきにある未来を、だれよりもレオンに歩いていってほしかったから。 「……どうした、人間。…悔やむのか?」 魔王が何かを喋っている。俺はレオンを抱いたまま、ぼんやりそれを見上げている。レオンの血に身体を浸したまま、俺は魔王に止めを刺すでもなく、ただ茫然と座り込んでいた。どうしてだろう。―――どこで、間違ってしまったんだっけ?さっきのレオンの言葉の意味はなんだ? レオンはどうして、俺の黒魔術のことを知っていたんだ? 「…悔やむなら、やりなおせばいい」 何を言っているのか最初はわからなかったけれど、瞬きを繰り返すうちに、魔王がなにをいっているのかわかった。…魔王の魔力の前では、時と時空すら越えることは容易いのだろう。俺よりもずっと素質のある、黒魔導のちからだ。ぼんやりとそんなことを考えながら、俺はその単語だけを拾って魔王の話に耳を傾けた。レオンの身体はまだ温かい。俺の鞄で役目を待つ薬草じゃ、どうにもならないことは目に見えていたけれど。 「…どうやって?」 俺がそう咽喉を震わせた瞬間、握りしめていたレオンの手指が、ぴくんと動いたような気がした。俺ははっとしてレオンの顔を見る。血にまみれたそこはわずかに苦渋に歪んでいた。さっきまで穏やかに笑っていたのに。…まだ、息があるのだろうか。回復の魔法を唱えたくても首飾りのせいでむりで、…俺はレオンを助けられるんだったらいくらでも命を投げ出したのに、レオンはそれすらもさせてくれなくて。俺は自らの無力に唇を噛み締め、その頬を震える手で拭う。この旅で初めて見たレオンの怪我は酷く、その血潮は、ひどく赤い。 「―――どうする、人間?旅立ちの日にもう一度戻り、そして新たな道を探せるか?」 魔王の声がひゅーひゅーと咽喉の鳴る音に混じって聞こえた。この分では、魔王も放っておけばじきに死ぬ。…なのにこんなことをいうってことは、命乞いとかそういうことだって頭では分かってた。わかってたのに迷うことなく頷いた、俺は勇者失格だ。 「やめろ、ノア……、これで、いいんだ」 するとこんな怪我をしてるとは思えない大きな声を上げ、レオンが口を開いた。もう意識を保っているだけで奇蹟だってのに、俺の手をぎゅっと握って、そんなことを言っている。俺は首を振り、魔王の赤い瞳を見上げて頷いた。かれは、僅かに笑ったように、俺の眼には見える。…恐ろしいはずの魔王の笑みは、どこかなつかしいものを、俺に感じさせた。 「ノア…」 肺から空気が漏れるひゅーひゅーという音に混ざって、レオンが俺の名を呼ぶ。けれど俺は、魔王に縋ると決めていた。 …これで終わりなんて、だめだ。そんなの、ぜったいにだめだ。お前は生きなきゃいけない。俺は、どうなってもいいから。 これが勇者として失格もいいところな最悪の行動だっていうことはとうにわかっていた。けれど俺は、レオンを救いたかった。レオンのいない未来なら、俺に守る価値はないと思った。 なあレオン。 本当は、俺は、お前とずっと生きていきたかったよ。けれどそれが叶わないから。叶わないなら。 だから全部飲み込んで、せめてお前がこうふくに生きていけるようにって、思っていたんだ。 俺は、お前を守りたかった。 「いいわけがあるか!こんなの、俺は絶対に認めない!」 だから。 これが甘言だとしても。油断をした俺がここで八つ裂きにされたって。それでも俺は、ためらいなく魔王の申し出に乗った。…たとえそれが、魔王に身を堕とすような所業でも。 ―――魔王が翳した手が俺たちの頭上をひらめいたのは、その瞬間のことだったように、思う。 「―――…それでいい。俺には、出来なかったことだから」 歪む視界と世界のなか、身体を濡らすレオンの血のあたたかさだけが鮮烈ななかで。最後に魔王が呟いた言葉が、俺の耳朶に張り付いていた。 「次こそは、しくじるなよ」 |