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伊鶴が真面目に仕事をしている姿なんて想像できなかったが、まあ、社会人なんだから締切は守るわな。ふつう。机の上に開きっぱなしのドラキュラを見てため息をつきそうになって、慌てて俺は黙ってしまった伊鶴に呼びかける。

「伊鶴?」
「うん」
「…えっと。翻訳家、だっけ」
「うん。明日までに医学論文を頼まれてる」
「あー…、がんばれ」

かたや俺は吸血鬼のでっちあげで、かたや伊鶴は医学論文の翻訳だ。ちょっと悲しくなってきたぞ。なんていっていいかわからなくてそういえば、伊鶴は少しばかり食い気味に、そして珍しいことに早口で言った。

「それ終わったら、大丈夫だから。明日呑み会終わったら、飯でも食おう」

ぷ、と思わず俺が噴き出してしまったのは、無理もないと思う。相変わらずちょっとずれたやつだ。おまえ、大学時代のあいつらの飲みっぷり覚えてないのかよ。あのテンションの呑み会のあとに何か食えたら、そいつはもうザルを通り越してワクだ。酒にあんまり強くない伊鶴はサークルでも愛玩動物みたいな扱いだったし(懐かないけど)無理に酒を飲まされることなんてなかったが俺は別だ。何度トイレと恋人になったことか。吐くまで飲むのなんてホストクラブぐらいだろうと思ったが、実は全然そんなことはない。

「…健斗?」

胸やけをしそうな色んな思い出が一気に胸を去来して黙ってしまった俺に、不安そうに伊鶴が声をかけてくる。慌てて返事をして、さっきとは違う意味で胸が潰れそうなくらいの感情をむりやりに押しつぶしながら、答えた。

「…わかった。じゃあ、明日」

わかった、と嬉しそうに返事をした伊鶴の声で通話が切れた。今度は二分三十秒になった通話時間を見つめながら、ひとつため息をつく。

伊鶴は俺と、友達でいたがっている。そんなこと二年前から、いいや、俺があいつへの思いを自覚したときからずっと分かってた。わかってたのに好きだ、といったのは、それを裏切ってしまうくらいに俺のなかで勝手に思いが膨れ上がっていたからだってのも、分かってる。そのせいでこの二年間後悔しなかったわけじゃない。あの時告白しなけりゃ、いまも当然のようにあいつと一緒にいたかもなって、思わないわけがない。

それをやり直せるかもしれないとわかっても、俺のこころは晴れなかった。やり直せるチャンスが来たと同時に、俺はまだあいつのことを好きなんだって嫌になるほど思い知らされた。どんな仕事をしてるのかなとか、どんなふうな訳をつけるんだろうとか、相変わらず英語も仏語も軽やかに操るんだろうかとか、目が合った時に笑う顔とかいろんなものを思い出して胸がくるしい。思春期はとっくの昔に終わっているし精神的にはもう枯れ果ててるのに、俺のこころはすごく迷っていた。

この気持ちを押し殺して伊鶴と友達に戻れるだろうか。お互いもう社会人で、いや俺なんかは社会人とは到底思えないような仕事してるけど、昔とは違う。二年も経ってる。俺の知らない間に、きっと伊鶴にも俺が直面したようないろんな儘ならないことが降りかかっただろう。それが伊鶴をどう変えたのか、見てしまうのは怖かったし辛かった。前ならきっと俺に逐一それを告げてくれていた伊鶴の著しい変化を見るのが、怖かった。

伊鶴と会って、何の話をしよう。
俺は今しがないオカルトだとかファンタジー系のフリーライターをやりつつたまに教授のところで研究を手伝ってる。今の仕事は都内に出る吸血鬼をレポート風に書く締切に追われてる。…すごくカッコ悪い。

他にももっと話したいことがあったはずなのに少しも具体的な事が出てこないのは、二年という時間の大きさを物語っている。二年もあれば色々なことが変わる。たくさんのことがあった。俺が弁当屋のバイトを半年で辞めたことや、髪を自分で切って大失敗したことや、髪を自分で染めてまだらになって美容室に駆け込んだこと、このアパートからは桜がとてもよく見えることなんてことを、伊鶴は知らないわけで。きっと伊鶴のなかにも同じくらい俺が知らないことが積み重なっている。俺はそれを知りたいし、知るのが怖い。

伊鶴はどんな二年間を過ごしたんだろうか。だれかがその隣に立っているんだろうか。笑うと頬に刻まれる片笑窪を思い出し、俺の胸はうるさく高鳴った。だれかが、伊鶴と一緒にいるということを知ることは、こわい。もしかしたら、あいつ、あっさり結婚とかしちゃってるかも。年上のお姉さんとかに押し切られたら断れない、面倒事が嫌いな伊鶴の性格を思い出し、俺は吸血鬼伝説のレポートを前に頭を抱えた。

こうなることが分かってたから、連絡したくなかったのに。二年前の失恋をまざまざと思い出し、俺は陰鬱な気分のままにキーボードを乱暴に叩く。もうどうにでもなれ、というやつだ。東京の街を燕尾服の美青年が闊歩しようが、たとえかれがありもしない若い女性の連続失踪事件の犯人であろうが、そんなことは最早俺の知ったことじゃない。伊鶴のことを頭から追い払うために、俺は上の空のままで仕事に戻ることにした。







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