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項垂れる生徒会長の手を引く噂の転校生の姿は、運よく誰にも見られずに済んだ。どのクラスも劇の練習に忙しいのだろう。そんな中どちらも主役を務める二人がこんなところにいてはいけないとわかってはいたのだけれど、柊は悠里を放っておけなかった。

「…いつもの、聞きたい」
「ん」

窓枠に腰掛けて外を眺めた悠里が、ぼそり、と零す。強引にここに連れてきたはいいもののなんとなく沈黙が続いていたから、その言葉は柊にとっても願ったりかなったりな一言だった。悠里が好きといってくれた曲だ。…誰かのために音を奏でて、それが自身の喜びに繋がるのなら、それ以上のしあわせはないと柊が世話になったピアノの先生は教えてくれた。柊はここで悠里のためにピアノを弾く時、いつもしあわせでいられる。だから、少しでも悠里にその気持ちを分けてやりたかった。

「…夢を、見るんだ」

穏やかな音の流れに目を閉じて耳を傾けていた悠里が、おもむろに口を開く。柊は手を止めなかった。もう反射のようにして動く指は音を奏でたまま、柊の耳は悠里の言葉に傾けられる。僅かに震えた悠里の声は、柊の鼓膜にひどく長く尾を引いた。

「愛をするのは、こわい。そう俺に、誰かが言っている夢。この間、高校に入ってから、初めてその夢を見た。中学のころはしょっちゅうみてたのに、久々だった」

悠里の声はどこか、何かの詩を諳んじているようないろをしていた。ふわふわと掴みどころのない声が、まるでなにか意味を持った音符のように吐き出される。

「愛をすることは、こわい。ひとを好きになることは、こわい。そう、彼女は言っている」

夢の中で幼い悠里に囁く「彼女」。柊はその姿を思い描こうとしてみて、出来なかった。繰り返し見る夢の経験は柊にはない。柊はあまり夢を見ない性質だったが、幼いころに見た、怪獣が家族を掴んで食べてしまう怖い夢のことだけはなぜかよく覚えている。それから怖くなって、二段ベッドの下で寝ていた弟を叩き起こし、朝までゲームに付き合わせたことも。

「俺は彼女を知らないのに。…そうなんだと納得をして、それを飲み下してしまっている」

ぽろん、とピアノの鍵盤を弾いて、柊は曲が終わってしまったことに気付く。思わず手を止めたまま、ゆっくりと背後を振り向いた。傾いてきた日差しがきらきらと悠里の横顔に降り注いでいる。

「顔も名前もわからないのに、俺は彼女の言葉に縛られてる。まるで、呪文みたいだ」

悠里は、ひとを好きになることが、こわいんだ。
いつだったか、秋月に言われた言葉が鮮やかに柊の耳に蘇る。あの時の秋月の言葉。もうかなりの時間が流れたあとに、本人の口からその言葉をもう一度聞くことになるなんて、柊は思ってもみなかった。

「彼女を助けたくて、救ってあげたくて、俺は走ってる。走って、走って、手を伸ばして、でも」

悠里の形のよい指先が、光を求めて窓のほうへ伸ばされた。波のようにたゆたう光のなかで、その白い指が踊る。てのひらのなかに木々の間から零れる木漏れ日を掴もうとして、けれど無論そんなことは到底むりだった。

「俺は間に合わない。…彼女を救ってあげられないし、恋をすればそれは、…喪われる」

なにかに突き動かされるように椅子を立ち、柊は手を伸ばす。そこに存在しない光を求めて彷徨う悠里の手を、強く握った。悠里の手は冷たかった。なぜかそれに、とても悲しくなる。

「知らなくていい、そういわれたけど。…思い出さなきゃ」

悠里自身ですら知らない、悠里のこと。かれはそう言って、自分を納得させたようだった。腰掛けていた窓枠の上で身体ごと柊を振りかえり、立ちつくした柊を見上げる。なあ、とどこか確かめるような声で、かれは尋ねた。

「…怖くないのか、柊は」

かれの言葉が意味するところを知って、柊はゆっくりと目を細めた。怖かった、そう零すと、悠里は僅かにその瞳を瞠る。すごくこわかった。

悠里に思いを伝えると決めたあの時、怖くて怖くてたまらなかった。けれどそれでも、柊は伝えたいと思ったのだ。あんなに胸が苦しくなるような気持ちをくれた悠里に、この気持ちを伝えたいと思った。そばに居たいと思った。笑ってほしいと思ったし、しあわせでいてほしいとも思った。恋というものは、とてもやさしくて、あたたかくて、しあわせなものだった。

悠里にそれを、知ってほしいと思う。愛をすることは、こわい。悠里のこころを縛るその呪文を、解いてやりたいと思う。

柊はかれの過去のことを、もちろんかれ以上に知らずにいる。けれどそれでもよかった。悠里がいまを、悠里として生きていることを、柊はどんなことがあっても証明してやれた。かれに貰ったたくさんのきらきらしたものは、間違いなく柊の胸に根付いている。

「…そんなのより、ずっとすごい」
「……すごい?」
「全部きらきらしてて、楽しくて、…きれいだ」

愛とか恋とか、それは今まで柊には縁遠いものだった。今は違う。柊はもう、それが一冊の本なんかには決して収まりきらないものだということを、知っている。

それは、悠里が柊に教えてくれたものだった。







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