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会いたくない、と思った。

伊鶴には会いたくない。もうあの、なんの曇りもないダークブルーの瞳に見つめられたくはない。失恋をまだ引き摺っているなんて考えたこともなかったけれど、あれ以来だれかを好きになるなんてこともなく過ごしている自分の身を顧みて、あいつの声をたった四十七秒聞いただけでこんなにも高鳴っている胸のことを考えて、もしかしたら俺はまだあの恋から立ち直っていないのかも、と思うのは簡単なことだった。

でも、行く、っていってしまったわけだし。伊鶴も来る、と言ったわけだし。あいつはどこに集合するかも、何時になにを持って行けばいいかも、何にもわかっていない。それは前からいつものことだった。人とは感覚がかなりずれている伊鶴のことだから、きっと何にも疑問を持たず、いそいそと準備を始めているころだろう。

もう一度電話をしなくてはならない。明日、夕方六時に駅前に集合。それを伝えればいいだけ。なのにどうしようもなく手が震えるのは、俺が今更に伊鶴との思い出に押し潰されそうになっているからだろう。

色々なことがあった。人目をひく容貌なのに、いいや、だからなのか、いつもひとりでいたあいつに声をかけて、遊びに誘い、なんとか目が合ったら寄って来てくれるまでになるまでに半年かかった。友人たちはまるで野生動物に餌付けをしているようだと俺を笑ったけれど、思ったよりも伊鶴が俺に懐いたので羨望の目で見るようになっていたのを思い出す。日本語が不自由なんじゃないかって思うくらいには喋らない癖に、英語や仏語は母国語のように流暢に操るかれ。ミステリアスなかれの姿は、ひいき目を差し引いたってすごく魅力的だった。一年も経てば英文科の天才と呼ばれるようになっていたかれが俺のいた西洋神話研究会っていう胡散臭いサークルに顔を出すようになって、そこに馴染んで、ぽつぽつと自分からも話をするようになって、そのなかでも殊更に俺にはこころを開いてくれていたように思う。

俺はそんな伊鶴のことをいつからか恋愛対象として好きになっていて、その白い肌や色の薄いグレーの髪に触れたくてしょうがなくなっていた。その衝動を押し殺すのにひどく苦しんだのは、いうまでもない。いくら中性的な風貌をしていても伊鶴はれっきとした男だってのに。何度となく自問自答したけれど答えは結局出なくて、このまま疎遠になってしまうならと俺は卒業式にあいつに告白をした。返ってきた言葉とそのどこか物悲しそうな表情は今もこの胸にしっかりとこびりついている。それは思い出すたびに俺をどうしようもなく苦しめる、楽しかったはずの大学生活最後を飾るひどく苦い思い出だった。

リダイヤルボタンを押すのに、すごく手間取った。もう一度キーボードに向き直ってありもしない吸血鬼をでっち上げようとして、結局手が止まる。

「…あした、夜の六時に、駅前。おーけー?」
「おーけー」

もう一度電話をかけた。感情の読みとれない平坦な声が返事をする。相変わらずだなってちょっと甘苦く思う。あいつは携帯を持っていないから――、今も持っていないのかは分からないけど、少なくとも大学を出るまでは持っていなかったから、連絡手段はかれがひとりで住むマンションの電話番号しかなかった。まだ引っ越していなかったのか、と思う。かれの家庭事情は複雑で、俺はかれの口から伊鶴がここ四年家族と会った話を聞いていない。里帰りをすることもなかったから、両親が海外にいる俺とは年末年始にも一緒に過ごす仲だった。だった、そう、過去形だけど。

俺の方はといえば世話になった教授の研究室に籍を置く傍らオカルト雑誌のライターをやっているから、大学生として親に仕送りをしてもらっていたころと同じアパートには住めなくなった。もっと安い家賃でないと、暮らしが立ち行かなくなったってわけである。狭くなったというよりはむしろ広くなったんだけど交通の便はすこぶる悪いこのアパートにも、もう馴染んでいる。

「…なあ、健斗。ひっこしたの?」

けれど、さっきはぷっつんと電話を切ったくせに、伊鶴はまるで俺の脳内を見越したようにそんな言葉を投げかけてきた。いきなりだったから盛大にどもった俺を待っていたのは、しんと抜けるような沈黙だ。息すらも潜めているような伊鶴の声に、思わず小さくなってしまった声で答えた。

「…うん」
「……お前んちいったら、違う人がでて、びっくりした」
「え」

思わず言葉を失う。伊鶴の声はやっぱり感情の読めない平坦な声で、俺はなんて言っていいのか盛大に戸惑った。伊鶴は俺とまだ友達でいたいと思ってくれている、というのは分かったけれど、それは、まだ燻ったままの恋心を自覚したばかりの俺にとっては拷問みたいなものだった。

友達でいたいからと断られたのに、一切の連絡も取らずに、引っ越したことすら教えずに逃げ続けてた俺。伊鶴の中では俺がまだ友達だったんなら、その痛みはなおさら増す。

「なのに、いきなり電話してくるし。びっくりした」
「…えっと、ごめん」

まさか伊鶴は、あの日のことを忘れているんじゃなかろうか。俺が伊鶴と気まずくなった(と、少なくとも俺は思っている)きっかけを、こいつは完全に総スルーしている。俺としては傷つくけれど、都合がいいとも思っていた。

やり直すなら、今だと思った。

「あー…のさ。今日暇?積もる話もあるし、どっか飯でも食いにいかないか」

友達としてやり直したいと思った。
下心を含んでいないといえば嘘になる。けれど俺が勝手に作ってしまった空白を埋めるチャンスは、今しかない。もう締切が明日の午前中な吸血鬼伝説のことなんてどうでもよかった。

「…きょう?」

伊鶴の声が聞き返す。明日の呑み会の前に会えるチャンスはそれしかなかったからいやおうなしに俺は今日と言ったんだが、さすがに伊鶴にも急すぎただろうか。無理なら今度でも、と畳み掛けようとしたところで、伊鶴が口を開く。

「きょうは、ごめん。明日の午前中までに、仕事あげなきゃいけない」

ものすごいカウンターアタックが返ってきた。






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