「…大丈夫、俺がいるよ」
たとえこいつが、俺がいないと息が出来ないとのたまうほどの馬鹿でも。俺は、俺じゃだめだ。こいつを不幸にする。俺は拳で涙を拭うと、その手を振り払って背を向けた。衝動的に走り出そうとしたのに、がっちりと腕を掴まれる。

「…離せよ」
「…ちゃんとみつけるよ。どこに隠れてもさ」

そんな俺の内心ですら見透かしたようなあいつの声。なんにもみえないゆがんだ視界で、ぎゅっとその胸に抱き寄せられたのがわかる。その背中に手は回せない。こいつが大事で、大事だから、できない。こいつはきっと、本気だ。

「俺さー、お前が泣いてんの久々にみた」
「…うるせ」
「俺があの人に殴られたのって高校のころだろ?三年ぶりくらい?」
「…も、はなせよ」

宇宙飛行士になるんだろ、と言ってみた。それは小学生のころの夢だったっけ。パイロットになる、アメリカの大統領になる、いろんなことをいっていた。相変わらず変なやつだった。

「宇宙飛行士はやめたんだ」

するとあいつは、そう密やかに笑う。それからくしゃくしゃ俺の頭を撫でたあと、ジンは照れたように言ったのだった。

「ほんとはずっと前から、お前のヒーローになるって決めてた」

なんてばかみたいなセリフを吐いて、こいつは勝ち誇った顔をする。呆然としてそのアホを見上げた俺は、ただただ言葉を失って硬直した。ぐずぐずと涙ばかりがこぼれる。どうしようもなくなって、無言のままで立ち尽くしてしまった。

「…ほら、行こ」

そんな俺を優しく呼ぶ、その声を掻き消したのは。

「…!」

深夜の静かな静寂には似合わない、俺の父の名前を叫ぶ、狂った女の絶叫だった。
―――とっさにあいつの胸を押しのけたのは、なんにも考えないうちのこと。助けなきゃ。守らなきゃ。今度こそ俺を庇って立ったこいつが倒れるさまをスローモーションで見せつけられるのなんざ、ごめんだ。

カバンを開けタオルを巻いて準備万端の包丁を取り出す。やっぱり俺は幸せになれないんだと思う。あの女がいる限り、ずっとさ。 電灯の下であの女の構えた包丁がギラギラ光ってるのがわかる。あいつが俺の名を叫ぶ。尻餅をついたあいつが立ち上がってしまうまえに駆け出した。うまく笑えているだろうかと思いながら、笑う。

なあ、もしお前を守れたらさ、そんな俺でも、お前はしあわせにしてくれるのかな。

「見つけたぞ、邪悪の神子よ!」

…そんなふうに絶叫をしながら俺に駆け寄ってきたあの女の顔は、これまで以上に醜悪だった。やっぱりこの女は狂ってる。いつもどおりその戯言は、俺にはわけがわからなかった。だがその声がひどく低いまるで男の声に聞こえたから、そのせいで俺はたたらを踏んだ。立ち竦んでしまった俺に、俺の名を呼ぶ声が追い縋る。

あいつの声だ。

来るな、と叫びたいのに、俺は目の前の異常すぎる現象に目を奪われて動けない。この女は、こんなにどす黒い顔色だったか。この女の額に、角なんて生えていたか。この女の肌は、緑色だったか。

視界が奇妙に歪んでいる。あの女であるはずの生き物を中心にぐにゃぐにゃと波打つ深夜の景色に、俺は目を見開いた。なにかよくわからないけれど、ひどく嫌な予感がする。あの女の姿が、近付いて、遠ざかる。消える。

包丁を握っていないほうの掌を、掴まれた感覚が、あった。

急激な浮遊感。胃を素手で掴まれて、こねくりまわされているような不快感があった。悲鳴を上げたくても上げられないなかで、俺はひどく客観的に、世界が崩れていくのを見ていた。

「…カケル」

だいじょうぶか、と名前を呼ばれる。はっとして顔を上げると、顔をくしゃくしゃに歪めたあいつと目があった。手を掴まれたままだ。…やっぱりさっき、俺の手を掴んだのはこいつだったらしい。ジン、と震える声でその名を呼べば、あいつはひどくほっとしたように俺のことをまた抱きしめた。あったかい。…もう、涙は乾いていた。

さっきまでの都会の風景は、どこかの森のなかに映り変わっている。死後の世界か、俺は死んだのか、と思ったけれど、俺はまだあの女に刺されちゃいないはずだった。手の中にはまだ、銀に光る包丁が。

…包丁が?

はっとして見た投げ出した手に握った包丁は、最早すでに包丁じゃなかった。かわりに俺が握ってるのは、RPGにでも出てくるような長い剣で。俺は茫然と顔を上げる。

「…ここ、どこだ?」

見渡す限り、一面の深い森だった。行ったことない樹海ってこんな感じなのかなってくらいには、静かで、不気味な森だった。鬱蒼と茂る木々たちが揺れてざわめく音だけが広がる世界は、恐ろしいほどの静寂に満ちている。そのなかに俺たちは、ふたりで投げ出されているようだった。

「わからない。…でもなんか、あの人、変だったよな?」

やっぱり、あれは俺の幻覚じゃなかったらしい。がさり、と緑を踏みしめる音が聞こえて、俺はとっさにあいつの腕を振り解いた。なにが起こってるかわからないで、でも、なにか嫌な予感がする。…こいつだけは守ってみせる、何があっても。俺のせいで巻き込まれた、このどうしようもないばかでお人よしの幼馴染だけは、ぜったいに。

「…力を取り戻したか」

そこにいるのは、最早あの女、と呼ぶことが出来ないような醜悪な生き物だった。

緑色の禿頭。突き出た角。ファンタジー映画に出て来るような、バケモノ。それが目の前で、なにやら喚いているようだ。その手には、俺が持ってる包丁だったものと同じような剣がある。俺の本能は、この木々がざわめく木漏れ日の差し込む場所のどかな場所でですら、あれを殺せと叫んでいた。お前はあれを殺すことが出来る。…おまえなら、あれを殺すことが出来る。

「ああああああ!!」

俺の本能は柄にもなく雄弁だった。あれはあの女だ。そう、告げている。殺せ、と、言っている。ここがどこであるかも、俺の頭がどうなっちまってるのかもわからないままに、俺はバケモノの頭部めがけて剣を一閃させた。

「…時が満ちるのも近いな」

閃光。一瞬の沈黙ののちに、バケモノの姿は消えうせていた。俺の手に手ごたえは残っていない。…殺し損ねてしまった。ざわめいていた俺の本能はそれに不満を持ったまま、静かに落ち着いていった。

いったい、なにが起こっているんだ。ここはどこで、俺は、俺たちは、どうしてこんなところにいるんだ。茫然としたまま、空を見上げてみた。そこには二つの月が照っている。

…二つの月。
この剣。あの女だった、バケモノ。見慣れない景色。俺の身になにか、ばかばかしいくらいにあり得ない出来ごとが起こっているのはよくわかった。

青々と茂る森に再び沈黙が戻ってきてしまうと、俺はどうしていいかわからなくなった。振り向いたさきで、ぶじに無傷でいるあいつは、茫然と地面に座り込んで空を見上げている。明るい空に上がる月。さっきまで俺たちがいた世界とは、明らかに違う場所。けれど俺は手に握った剣の重さを、どうにも幻覚だとは思えなかった。

「…っ!」

はっと頭を振ったジンが、立ちあがって駆け寄ってくる。俺は勢いよくその腕に抱きしめられた。危ない、ととっさに思って手放した剣が足元に転がる音が、やけに澄んで響く。

「俺が守る、お前は俺が守るから、カケル」

ジンは、うわごとのようにそういった。いつも通りへらへらと笑ってほしいのに、笑って俺の手を引いてほしいのに、ジンの顔は隠しようもない恐怖に怯えている。

あれほどさっき躊躇ったのに、俺はとっさにその背中に腕を回していた。この異常な世界で、あの女も今は居なくて、俺にこの手を取れない理由はない。剣を拾い上げるのは、そのあとでいい。

俺の胸を支配しているのは、どこか言い表せないような昂揚と、…そして、紛れもない喜びだった。

「…ジン」

なあ、俺さ。まだ何にもわかんないんだけど。
…ここでなら、俺だってお前を守れるヒーローになれるような、気がするよ。






戻る

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -