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戸締りを確認して暖炉の火を消し、シルヴァが足音を忍ばせて寝室へ戻ったころにはもうスグリは寝息を立てていた。相変わらず寝相が悪く掛布を蹴り散らかしているのをちゃんと掛け直してやって、枕元のランプが照らすその表情をそっと見る。
―――結局、言えずじまいだった。シルヴァはスグリの「家族」が怖い。かれの家族でありたいからこそ、かれが持っていたそれを奪ってしまったことが、ひどく後ろめたいのだ。たとえスグリが、それを気に病んでいないとしても。
額にそっと手を当てる。おそらくはかれの言う通り風邪だろうが、シルヴァは不安だった。風邪を引いて身体が弱れば、ますます疫病にかかる危険性が高くなる。弓に矢を番え引き絞ったところで、それではスグリを守れない。
「…ん」
僅かにむずかるような声を上げて、スグリが寝返りを打った。ついでにまたせっかくかけてやった掛布を蹴飛ばすものだから、シルヴァは苦笑してしまう。ようやく肋が透け見えなくなった白い腹が、ゆっくりと上下している。捲れた服を戻し、もう一度掛布をその身体に被せた。
本人は全くもって気付いていないが、スグリは相当に寝相が悪かった。いま掛布なしに寝たら、風邪が悪化することは明白である。本人にそれとなく伝えたら必死になって否定をするので、シルヴァはとうに諦めていた。なにも、もう一度掛けなおしてやればいいだけの話である。
そっとかれの額に口づけを落とし、シルヴァはランプを消した。隣に横になり、穏やかな寝息と雪がしんしんと降り積もる気配だけがするなかで目を閉じる。
夢は見なかった。
「…ん」
冬の夜は長い。けれどまだ暗いうちに目が覚めてしまったのは、妙に身体が熱かったせいだ。身の裡から来るものではない。それにはっとして目を開け、シルヴァは熱を持った身体の片側に手をやる。そこに触れたのは、触れ慣れた指通りのいい髪の感覚だった。
スグリの頭を手で探り、額らしい場所を探しだす。掌をそこに押し当てると、やはり、明確に熱を持っていた。僅かに残っていた眠気なんて一気に吹き飛んで、シルヴァは寝台の上に起き上がる。時刻はまだ未明といったところだろうか、雪はまだ降り続いているようだ。
「スグリ、スグリ起きろ」
風邪であればいい。そう思いながら、シルヴァはかれを揺り起す。かれの眉が潜められ、そのあおいろが緩慢に開くまでの時間が、ひどく長く感じられた。
「シルヴァ…、おはよう」
自身の体調に無頓着に、目を開けたスグリはそういって綻ぶように笑った。おはよう、と思ったよりずっと低くなってしまった声で言って、シルヴァはかれの身体を抱え起こして座らせる。きょとんとした顔をしたかれの額に手を押し当て、咽喉が腫れていないかその首に触れ、シルヴァは乏しい知識を総動員させた。
疫病の時に見られるような劇症は見られない。身体のどこにも不審な痣は出ていないし、意識もしっかりしている。火急の症状ではなさそうだった。
「熱っぽい」
けれど掌に感じるのは、たまにスグリが一日二日寝込んでいたときよりもずっと高い温度。不安になってそういえば、スグリは訳が分かっていない顔をして首を傾げただけだった。寝ぼけた頭には、まだシルヴァの言葉はついていかないらしい。待っていて、と言い置いて、シルヴァは足早に寝室を出る。
―――疫病では、ないと思う。
いつもならシルヴァは迷わずアザミに指示を仰ぎに行く。…けれどすでに病人が出ているかもしれないそこで、ほんとうに疫病を貰ってきてしまったら。シルヴァは身体が丈夫だから罹らなくとも、いまのスグリになら伝染してしまっても不思議ではない。身体が弱いということに慣れ切ってしまっているスグリは、自分の不調にすこぶる鈍いのだった。いまのところは平気そうな顔をしているけれど、もしかしたらさらに悪化してしまうかもしれない。
そう思うと、へたにシルヴァが外出するのも、避けた方がよさそうだった。
軒下にぶら下がっている氷柱を一本折って、それを木槌で軽く叩いて粉々にした。丈夫そうな袋にそれと水を入れて、氷嚢のかわりにする。簡単な氷嚢だが、ないよりはましだ。少しでもあの熱を下げなければ安心できない。部屋に戻るとスグリは布団の上に上体を起こし、手持無沙汰そうに蔦を手にとって編んでいた。
「シルヴァ…?」
ぎし、と寝台に乗り上げたシルヴァの顔を、その瞳が緩慢に見上げて、わらう。片腕でその頼りない細さの肩を抱き寄せて、シルヴァは額にひたと手を当てた。熱い。枕の上にかれの身体を寝かしつけ、熱い額の上に氷嚢を乗せる。
「…」
冷えたそれにちいさく身震いをしたスグリは、困ったような顔をしてシルヴァを見上げた。驚かせてしまったか、と思ってかれの頬をてのひらで包むと、その瞳が安心したように撓む。
かれを、うしなうのはこわい。
途方もない恐怖は、熊や猪と相対するときとは全く異なる類のものだ。じわじわと足元から地面が崩れていくような恐怖を、シルヴァはスグリと出会うまでしらなかった。かれというよるべを手に入れた代償に、シルヴァはそんな恐怖を知った。
「…薬草が」
ぽつり、とスグリが唇を震わせる。瞬いた青の瞳は、りんと生命の輝きを映し出していた。かれのその、静かなようでいて意志の強い眼差しは、熱に霞みながらも生き生きと輝いている。
「食糧庫の、壺に」
「…わかった、持ってくる」
立ち上がろうとしたスグリを押しとどめ、シルヴァはそう言って寝台のそばから退いた。シルヴァ、と熱で掠れた声がその背を追う。
「…スグリ?」
するとかれは、ちょっとだけくすぐったそうに笑みを浮かべてもう一度シルヴァの名前を繰り返した。そうして、思わず立ち止ったシルヴァが耳を澄ませば。
「…だいじょうぶだよ」
スグリは、まるでシルヴァを安心させるかのように、そういったのだった。