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葛葉が静馬の背中に手を当てて目を閉じ、しばらく経った。流暢に喋りつづけていた蘆屋道満の亡霊が静馬の顔を借りて表情を歪め、苦悶に呻く。不安げに弟を見守る数馬の呪詛も相まって、道満はついに口を開くことも出来なくなったようだった。それをじっと眺めていた帝は静馬の背中に手を当てていつになく真剣な顔をした九尾をちらりと見る。葛葉、と名付けられたその九尾。そして先ほどふわりとこの部屋に満ちた、幼かった帝のよく知る人間の気配。

「…清明か」

ぼそりと帝が呟いた言葉は、近習の者に聞き咎められた。清明はずっと昔に死んだはずです、という。いやなに、蘆屋道満でさえも亡霊としてこの世に留まっていられるのならば、清明がまだ生きていたとして、何の不思議はあるまいよ。帝は答えた。

既に先ほどまでの、恐ろしいような禍々しい霊力の気配はない。九尾が上手くやったのだろう、と帝は僅かに口元を緩ませた。

「…っ、!」

大きく静馬が息を詰める。詠唱を中断して顔を上げた数馬が目を見開いた。大きく胸を逸らせた弟の口から吐き出されたのは、拳大の大きな黒い塊だ。

それと一緒に、あれほど内裏を震撼させていたあの禍々しい気配が消える。目を開いた葛葉が、満足げに息を吐く。静馬が寝かされた布団の上で蠢くその黒い塊をどうしてやろうものかと、周囲の陰陽師たちが目くばせをしたその時。

「…よく頑張ったね、九尾」

という朗らかな声がしたものだから、さっと部屋は静まり返った。ただひとり帝だけが、ああやはりか、という顔をしながら肩を竦めている。

「やあやあ春宮、いや、今は今上か。今回は世話をかけたね」

…先ほどまでは何も無かったはずの部屋の隅に、青年がひとり立っていた。とっさに立ち上がって剣を抜いた蔵人を手で制し、帝はどこか面白がっているような、そんな顔をして笑う。構いはせんよ、とのんびりと答えた帝のほかは、葛葉すらもあっけにとられてその男を見上げていた。

「御苦労、僕の後継たち」

男の持つ霊力は、九尾の狐である葛葉のそれすらを軽く凌駕するものだった。圧倒的な霊力。そしてその白皙に浮かぶ微笑みは、はっとしてしまうほど魅力に満ち溢れている。

「せっかく日の本を見て回っていたっていうのに、こんな気持ちの悪い呪詛のせいでわざわざ東海道からここまで戻って来なきゃならなかったよ」

笑いながらかれは、けほけほと咳き込んでいる静馬がすっかり吐き出してしまった呪詛の塊をその手でひょいと掴みあげた。掌の上でうごめくそれをしばらく眺めていたかれは、笑いながらそれを懐に落とし込んでしまう。あっけにとられてそれを見守っていた数馬の肩をぽんぽんと叩き、そしてその青年は、じゃあね、といってそのまま障子を開けて出ていってしまった。慌てて後を追った蔵人たちは、この刹那の間にかれを見失ったらしく首を振ってすぐに戻ってくる。奇妙な沈黙が満ちてしまったこの小部屋のなかで、のろのろと唇を震わせたのは陰陽寮の長老だった。

「…、あ、安倍清明公…」
「……、あいつか、静馬に余計なモン喰わせやがったのは」

薄く目を閉じたままの静馬の頬を指先で撫でながら、葛葉は小さく舌打ちをする。さっき霊力を、…いつもの静馬の持つ、あのあまいちからを分け与えてもらったとき、無視できない質量でもって混ざっていたのは高濃度過ぎて苦いくらいの霊力だった。さきほどの圧倒的な存在感の男と、よく似ている。

「…あれが曾爺様…、そうか、かれは半妖なのか」

数馬は弟の顔をじっと見つめていたが、はたと納得がいったように目を見開いた。齢がとうに百を越えていようかれも、違う時間の流れの中を生きる妖の眷族だということを鑑みればああした姿で現れたところで、不思議ではない。

「静馬も…」

まだ目を開かない静馬の、けれど穏やかな寝顔を、複雑そうに数馬が眺めている。父は同じであれど、母は違う弟。すやすやと健やかに眠る表情は、平素と変わらないように見えたのだが。

「…これで、こいつもちゃんと陰陽師になれるかもな」

その頬を手の甲で撫でていた葛葉が、そう小さくその鋭い犬歯を見せて笑った。清明がどのようにしてその半妖の身で呪詛を操ったのか、それさえ知れれば、静馬がこの力を使いこなすことも決して不可能ではないように思われる。

…だが。

「ま、いいか、べつに」

静馬が目覚めたらそれを教えてやることを、葛葉はそうそうにやめたらしい。むに、とその頬を摘まみ、静馬を叩き起こした。

「起きろ、静馬」
「…んん」

好き勝手に頬を引き伸ばされて、耐えかねたようにその眉が寄った。数馬が弟の手を強く握り、その名を呼ぶと。

「…あれ」

緩慢なしぐさで目を開いた静馬の瞳はもう、平素どおりの漆黒のいろを映し出していた。張り詰めていた部屋の緊張が、一挙に解ける。べし、とその後頭部をひとつ殴って、九尾は低く唸り声をあげた。

「いい御身分だな、静馬?」
「…あれ、お前、なんで。兄様まで…」

その手を額に押し当てて声を噛み殺して嗚咽する兄を見て、静馬は困り切ったように葛葉を仰ぎ見た。仏頂面をぶら下げているにはいるのだけれど、その九本の尾は忙しなくぱたぱたと揺れている。何度か瞬きをすると、先ほどの夢がどうやら醒めたのだと知れた。といっても、静馬はあまり詳しく夢のことを、覚えていなかったのだが。

「自分の胸に聞いてみろ、どあほ」
「…?」

なにかとてもあたたかくてやさしいものに、守られていたような気がする。胸のあたりを掌で押さえてみて、静馬はけれどその正体を掴めずに首を傾げた。ほっとした顔の陰陽寮の長老や、満足そうに笑っている帝が目に入った。よかった、と繰り返している兄も。それから。

「…おい、静馬。俺の名を呼べ」
「……」

仏頂面のままなくせに、やはりその尾はせわしなくぱたぱたと畳を叩いてその感情を伝えている。狐の金色の耳もこちらへと向いていた。ちいさく笑いながら、静馬はかれの名を呼ぶ。

「葛葉」

すると、かれは。
満足そうににっとその鋭い犬歯を見せて、それでいい、と笑った。








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