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9



「静馬」

と、静馬の名を呼ぶ声がした。足元の狐火が徐々に感覚を狭めていく。少しずつ辺りが明るくなっていた。

「…だれだ、僕の名を呼ぶのは」

役に立たない、何も出来ないおのれの名を呼ばわるのは、だれだ。胸の中の闇が、そう返事をした。振り向くとそこには何も居ない。あの青年さえもだ。けれどもう一度、静馬、とおのれを呼ぶ声がすることに、静馬は気付いた。

「俺の名を呼べ、静馬!」

だからお前は誰なのだ、と静馬は内心で不満を募らせた。名乗らぬ癖に名を呼べだの、そんなことをいう無礼者に心当たりはない。一先ず先へと進もうと歩きだすと、同じことを繰り返す声が大きくなった。

ふいに、あの猫又が視界を横切った。河童や、百鬼夜行たちも。どれも静馬の命を狙ったものたちだ。ぼんやりと赤に染まったひとみでそれを追う。霞がかかった思考は、未だいつもの明晰を取り戻してはいなかった。…どうして、生きているんだっけ?そんなことを考えて息を止める。

守られて、いたからだ。

「――俺の名だ!お前が付けた名だろうが、静馬!」

再び無礼な声が響く。静馬はふいに、頭痛を感じて立ち止った。誰に守られていた?だれが静馬の背を庇い、叱咤をし、それでいて、…無力を嘆く静馬の腕を引き、役立たずだと憂う静馬を一笑してくれていた?

なにかとても大切なものを、忘れているような気がしていた。百鬼夜行が静馬に気付く。にやりとその口元を歪めながら、静馬を喰らおうと駆け寄ってきた。思わず身を竦めた静馬は、同じことがあったな、と、ちょうど先ほどあの不思議な青年が闇を払ってくれたところのこころで考える。

そのときも、こうやって静馬は立ちつくしていた。そんな静馬の前に躍り出た、金色の風。静馬の脳裏にその輝きが蘇る。静馬を認め、今のままでいいと、そうやっていってくれた、それ。

葛葉。

その名が脳裏を閃いた途端、まるで洪水のように、静馬の頭にこれまでの情景がよみがえってきた。静馬の喉笛を噛みちぎろうとした猫又を軽く薙いで、ため息をついて目を細め静馬を見つめた金色の瞳。河童に河に引っ張りこまれそうになった静馬を引っ張りあげてくれた、呆れた顔。百鬼夜行を一掃し、心底ほっとした顔で静馬を引き寄せた、その腕。

「――お前は、それでいいんだよ」

幾度となく言い聞かせてくれていた、その声が。静馬の胸を、一杯にする。そこにはもうあの柔らかな闇がつけ入る隙間などどこにもなかった。静馬は遮二無二にその名を叫ぶ。狐火たちがざわめいている。

「―――葛葉ッ!」

そしてその金色が打ち祓ったのは、静馬にとりつく妖怪の群れだけではなかった。静馬の歩いていた闇、それですら、一陣の風が蹂躙する。静馬は知らず伸ばしていた腕が、力づよく掴まれるのを感じた。

熱い。燃えるように熱い、掌だ。ぴしりと音を立てて、静馬の歩いていた道に罅が入る。遥か高かった闇の天井が、がらがらと蒼い光を乱反射しながら崩れてくる。静馬は自分を掴んだ手に導かれるまま、何も考えないでその手の主のほうへ駆け寄った。

「…葛葉」

金色の名を、静馬はよく知っている。静馬が付けた名だ。…どうしてこんな大切なことを、忘れていたんだろう。胸を満たすのはあのあまやかな闇ではない。もっと冷たくて、固くて、それでいてとてもきらきらした、名を付けるのなら光だった。儘ならないけれどそのなかで、こうして静馬を呼んでくれる声のある、そんな光に満ちた世界だった。

「……」

あれほど深かった闇がすっかりと崩れてしまえば、辺りは白い光に満ちていた。静馬は自分からそれほど遠く離れていない場所に、葛葉が相変わらずの態度の大きさで立っているのを目視する。けれど静馬は知っていた。その瞳がどうしようもない安堵に綻び、唇が静馬を呼び、その腕がつよく静馬を抱き寄せてくれることを、よく知っていた。

たとえ、役立たずであったとしても。弱く、足手まといであったとしても。そんなこと関係なく、あの男は静馬の腕を強く引き、共にいくのを躊躇いはしまい。指先から震えてしまいそうな大きな発見が、静馬にはあった。

「どうして自分の中で迷子になるんだよ、阿呆」
「…そんな阿呆をあるじに選んだのは、お前だ」
「ちげえねえ」

笑いながら葛葉が静馬を招き寄せる。葛葉が作り上げたこの白く光る空間は、静馬が葛葉に近づくにつれて小さく狭まっていった。静馬の背後まで、ふたたびあの闇が迫っている。けれど静馬は躊躇はなかった。かれならきっと、なんとかしてくれる。それは予想ではなく実感だった。

あの蟲毒の発動から、胸の裡に闇が広がったのを思い出していた。静馬の胸に突き刺さったあの闇の光。どこか禍々しくて、あたたかくて、居心地のよかったもの。けれどこっちのほうが幾分あたたかいし、居心地もいい。力強く葛葉の腕に抱き寄せられ、静馬はそっと息を吐いた。

「静馬」

いつもよりも随分優しい声で、葛葉が静馬の名を呼ぶ。頷いて顔を上げると、かれは静馬のおとがいを掴んでその唇にくちづけた。体内に燻っていた霊力が、根こそぎ持っていかれる感覚。やっぱり無礼な奴だ、と思いながら、静馬はゆっくり目を閉じた。あたたかい。

「…おい、何処でこんなくそ不味い霊力貰ってきたんだよ」

静馬からそっと顔を離すと、葛葉は眉を潜めてぺっと霊力の塊を吐き出した。常世なら視えないそれも、この不思議な空間ではしっかりと目視できる。きっと先ほどあの青年がくれたものだろう、と思いながら、静馬はちょっと笑ってしまった。もう静馬の胸を浸すのは、泣きたくなるような安心感だけだ。

「ま、これだけあれば十分か。…覚悟してもらうぞ、おっさん」

葛葉の腕のなかで振り向いて、静馬は直感的に先ほどあの青年と相対していた男だと分かるような禍々しい風体をした人間が闇の中を歩み寄ってくるのを目視する。思わず身体を竦めた静馬を宥めるように葛葉の手が背中を撫で、それからその身に、肌が粟立つほどの霊力を迸らせた葛葉が、にやりとその口元を歪めるのも。静馬を閉じ込めていた闇の世界がつんざくような悲鳴を上げて粉々に砕け散ったのは、葛葉の唇が呪を唱えた、その次の瞬間だった。









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