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贖罪のミンネ





月の光がほそく差し込む。街は眠りに包まれて、それは一部、永久のそれであるのだけれど、静寂を保っていた。

イタルがこの若さで純正<スコア>の密売組織の支部長にまで上り詰めるのには、並々ならぬ苦労があった。その生まれつきの甘い顔立ちのせいで、女など殆どが理不尽な欲望の犠牲になったこの国で下卑た視線に晒され続け、それでもその頭脳と知識だけで成り上がり、疎まれ誹りを受けながらも、イタルはりんと立って生きてきたのだ。

そんなかれを追い掛けるように麻薬密売の組織に飛び込み、イカれていると影で噂されるほどの血まみれた実績を上げてイタルのそばまで凄まじい速さで成り上がったのが、センリだった。組織内で噂を攫ったその男が、いつもイタルの少し後ろに立って冷たい目を光らせている男だと、最初こそだれも気がつかなかったようだけれど。

「……今日は、少し疲れた」
「…はい」

返事は求められていないと分かっていながら、センリはイタルの言葉にそう声を返した。イタルは、センリのすべてだった。世界を構成する元素は、かれだけだった。

「何処か、寄られるところはありますか?」
「ない。帰る」
「はい」

イタルは、センリがどこからか手配してきたマンションの一室に住んでいる。朝はセンリが迎えに来るし、帰りも支部長であるイタルよりよっぽど仕事が多いはずのセンリは何故かいつもイタルの仕事が片付くのを待っているから、そのままかれの運転する車で家に戻った。たしかにセキュリティー面では不安のない生活ではあったが、分厚い窓とカーテンは些か退屈だった。近頃はよく、古いDVDを大量に買い込んでは夜長の友としている。

「寄っていけ。…今日は、独り酒の気分じゃない」

恭しく助手席の扉を開けたセンリの、血の跳ねたネクタイを掴み、イタルはそういった。かれのその似合わず澄んだ緑色の瞳が、驚いたように見開かれる。なにもこうしてかれに酒を付き合わせるのは今に始まったことではないのに、センリはいつもひどく驚いた顔をした。

「…よろしいんですか」
「良いっていってるだろ。ついでに今後の対策も練る」
「…はい!」

従順なイタルの犬は、それだけでひどく嬉しそうに声を上げた。表情を崩すとひどく幼く見えるかれは、実際のところ、イタルより二つばかり若い。

車からキーを抜き、マンションの部屋へと向かう。その間にもセンリの全身から余すところなくうれしい、といった主張が漏れ出ていて、なんとなくイタルは笑ってしまった。相変わらずなこの男は、ちっとも成長しちゃいない。

「何をお飲みになりますか?」
「ブランデー。ロックな」

はい、という浮かれた声が、清掃の行き届いた部屋の奥、あまり使わないキッチンのほうで聞こえた。イタルはスーツの上着を脱ぎタイを解いて、ふっとひとつ息を吐く。部屋の隅に山のように積み重なっている書類の、一番上の束を手に取った。

<スコア>末期患者とこの国の直営事業でもある兵器製造会社との関連について、イタルは調べていた。無論これは密売組織の関連ではない。イタルがたったひとりで、立ち向かっている問題である。

「お待たせしました」
「ん」

…いいや、正確にいえば、二人、だ。荒事に巻き込まれたらいちどで命を失うだろうイタルが国家機密をここまで掻き集めてこれたのは、一重にこの、にこにこと笑って氷の浮いたブランデーのグラスを置いた男のおかげでもある。かれがイタルのたくらみに気付いた者の首を折り、心臓を握りつぶしてきたからこそ、イタルが今も生きている、ということも、たしかにある。

恍惚とした表情で血や心筋の絡みついた手をイタルのほおに押し当てたセンリのことを思い出し、イタルは僅かに身動ぎした。よく似合います、とか、きれいだ、とか頭のイカれたことを言っていた覚えがあるが、残念ながらセンリは<スコア>の常習者などではない。つまるところ、この男は生まれついての異常者なのだった。

「これで、支部長に赴任した時に目星を付けていた情報は全部だ。…やはり<スコア>の純正品の半分はツァーリィエに流れてる」

ツァーリィエ、というのが、この国を牛耳る兵器会社の名だった。性能のよい対人戦闘用インターデバイスを生産している企業があれば、国としても安泰である。その点ではツァーリィエの功績は大きいものだった。もう少し首都へと近づけば、まだ治安がまともな街もあるという。…ぎり、と無意識に奥歯が鳴った。

この荒廃した世界で何故イタルが生きているのかと問われたら、かれは迷わず答えるだろう。「ツァーリィエに復讐するため、」と。それだけだった。イタルを生かすのは、その復讐のほのくらい焔でしかなかった。

アルコール度数の高いウイスキーに口を付け、イタルは咽喉を鳴らして笑った。栗毛の奥のベビーフェイスが、物騒に笑う。

「もう少しだ。首都に配属されるところまで成り上がれば」

酒に濡れた唇を舌で舐り、口端を持ち上げる。そんなイタルをじっと見つめていたセンリが、ふいに綻ぶように笑った。黙っていれば秀麗以外の何物でもないその整った容貌が、やわらかくやさしく崩れる。自分の分のウイスキーに手を付けて、目を細めて感情の高ぶったイタルの声を待っている。

「…必ず助ける、兄さん…!」

そう絞り出すようにイタルが口にした名は、それだった。イタルの、たったひとりの家族。まだ生きているのかもわからない、かれ。双子の兄は、今頃どうしているのだろう。復讐という焔の底に横たわる絶えることのない燃料は、イタルと同じ顔をした、兄の姿をしている。

この国で最も高いビルの一番上から、憎き男を引き摺り降ろす。兄の姿を探し、その声がイタルと名を呼ぶのを待つ。それが、イタルの生きる意味だった。

咽喉を灼くウイスキーを一気に飲み干してから、イタルはゆうべ半ばで眠ってしまったせいで内容を覚えていないDVDを再生した。白黒の映画は些か退屈だが、感情の高ぶっているときにはちょうどいい。何百年も前の映画が映し出されるのを、イタルはぼんやりと眺めた。












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