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じっと先ほどの顔に大きな傷を持つ男が消えて行ったほうを見つめていた長剣遣いがゆっくりとコハクを振りかえったとき、どうして自分が逃げ出さなかったのか、コハクは自分でも分からなかった。

けれどコハクは、確かにその男に見惚れていたのかもしれない。その太刀筋。無駄のない所作。かれのその深緑の色をした髪が散るたび、コハクは息をするのも忘れてかれの姿に見入っていた。

「あ…」

男はなんとか体勢を整えて地べたに座り込んだコハクを、じっと見下ろしている。その瞳は冷たく鋭い刃物のような青色で、コハクはまじまじとそれを見返した。この辺りでは、見かけたことのない顔である。

「…助けて、くれたのか?」

すっかり乾いてしまった唇から、そんな言葉が漏れた。男は意外そうにすこし目を瞠ってから、口もとを少しだけ綻ばせた。その長いマントを翻し、かれのすらりと長い指が指差したのは、路地の奥の奥にある古びてヒビの入ったシェルターだ。

「昨夜この町に入ってな。宿屋の一つもないというから、そこをねぐらにしていた。煩いのがいたから、追い払っただけだ。気にすることはない」

男はコハクよりもだいぶ年嵩に見える。少年の域を抜けきらないコハクと較べたら、その長い手足もたくましい身体も、そしてそれに見合った長剣も、大人の男といった風情を醸し出していた。

「…あのシェルターじゃ、さっきの砂嵐は防げなかっただろ?」

コハクは救世主が悪い人間ではないことを本能的に察知すると、まだうっすらと砂が溜まった地面に胡坐をかいてそういった。男はくしゃっと顔を歪めて、苦笑いをする。先ほどの男よりかは小さいけれどその端正な顔に刻まれた僅かな刀傷が、なんとなくかれを悪戯っぽく見せていた。

「全く。どうりで地元の人間が、少しも寄りつかないわけだ」

コハクはまだ心臓がバクバクと脈打っているのを感じながら、勢いをつけて立ち上がる。呑気な世間話なんてしていられるような状況なのを、ようやく思い出したからだった。周囲にはまだ、先ほどこの男が片付けてくれたならず者たちがごろごろと転がったままだ。

「なあ!あんた旅人なんだろ。とりあえずは嵐が凌げる場所に案内するからさ、ついてきて」

それはコハクにとって精一杯の義理固さだった。無論コハクにはかれを泊めてやれるようなご大層な家などないし、食べ物だって手に入れられなかった。あるのはただ、缶詰ひとつにもならなかった雑誌だけ。コハクに出来ることはバラックが積み重なってできた穴場の空間にかれを案内してやることくらいだった。

「…いいのか?」
「あんたが助けてくれなきゃ、今頃死んでたからね」

またしても、雲行きが怪しくなっている。今度は雨か、それともまた砂嵐か。どちらにせよ家のあるものは急いで家に戻っていくようなそんな天気だったから、コハクは勢いよく立ち上がって血の匂いに満ちた路地裏を飛び出した。先ほどの男たちの会話は、それほど明瞭には聞きとれなかった。けれどなにかきな臭い話をしていたことは明白で、だからこそなんとなく、ここから早く離れたかったのかもしれない。

天賦の身軽さで飛ぶように走るコハクに、男は驚いたことに遅れることなくついてきた。何度も後ろを振り返ってかれが付いてきていることを確かめるのも面倒になって、市場を抜けたあたりからコハクはほとんどかれのことを気にせずに駆けた。それでも少し後ろに対して離れることなく男がついてくるから、コハクは舌を巻いたのだけれど。

結局、コハクの隠れ家である周りから見ればただの使いものにならないバラックの場所へは、天気が崩れる前に辿りつけた。男は息をすこし弾ませているだけで、目を細めてコハクを見ている。古い時代の電信柱が倒れたのに座ってそれを見ながら、コハクは感嘆を隠せずに思わず声を上げていた。

「すごいな、あんた。おれ、全速力だったのに」
「お前こそ。…こんなに足が早いだなんて、思わなかった」
「ここでひとりで生きていくのは、たいへんだからな。さっきだって足が竦まなきゃ、あんなの簡単に逃げきれてた」

旧時代のものに囲まれた、狭いけれど頑丈な空間に男を案内する。結局売れずじまいだった雑誌を床に放り投げ、コハクはゴーグルの汚れを軽く拭いて壁にぶら下げた。

売れなかった雑貨やいざというときに使う道具は、この隠れ家にすべてかくしてあった。周りの人間も滅多に近付かないような場所だから、コハクがここをねぐらにしていることは、だれも知らない。大雨やひどい嵐でなければなんとか凌げるから、そう毎日シェルターにいけるわけではないコハクは、ここをひどく重宝していた。

「…興味があるのか?」

そうしてコハクが身支度をかるく整えていると、男はコハクが投げ捨てた雑誌を熱心に呼んでいた。コハクがそういえば、はっとしたように顔を上げる。

「あんたにあげる。助けてくれたお礼だ」
「…いいのか?」

もちろん。そういいながら、コハクは雨のときに溜めた水を濾過したのを男の前においてやった。人を招いた経験なんてないから、どうも動作がぎこちない。

「水は貴重だろう」
「気にするな。…おれはコハク。あんたは?」

男は僅かに顎を上げ、コハクの顔を検分するように見た。コハク。その名を、確かめるように口の中で転がす。

「――アズマだ」

それが、コハクとアズマの出会いだった。







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