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孤恋



「何者だ!」
「待て、あれは…」

ふわりと身体が浮かぶのがわかる。内裏の中、承明門を越えたさきの広場に、どうやら葛葉は侵入してしまったらしかった。なんたる不敬だ、と思いながら、静馬はいたたまれなさにぎゅっと葛葉の背中を握る。上等の仕立ての狩衣に皺をつくってしまいそうだったけれど、その実これはかれの霊力の具現のようなものだからあまり気にしていない。とにかくいまは寄る辺がほしかった。兄の前に、ここは内裏のなかなのに、水干姿だし、などと色々考えていたら、そんな細事を払拭するかのような声が響く。

「こんなところで祈ってたって何も始まんねえよ無能ども。京の都の四方に呪具が置かれてる、一先ずはそれを集めてこないことには解呪なんて無理だ」

…それも、最悪な形でだ。権威も立場もある陰陽師たちは、突然の空からの闖入者に面喰った。しかも肩にはどうやら人間を担いでいるらしい。けれどすぐに、それが何者か、というのは知れた。…その金の瞳。霊力を使った直後のせいか、揺れている九本の尾。かれはこの京でも類を見ない大妖である、九尾の狐に違いない、ということだけは。

「…葛葉!静馬を離せ!」
「うっせえんだっての。俺の話聞いてたか?」

兄の声が間近でした。なんとかかれのほうに意識を向けようと静馬は失った視界のなかで懸命にもがくのだけれど、葛葉はなんということはないふうにその身体を担ぎ直す始末だ。蔵人たちもこの状況に、どうしていいか分からずに剣を片手に右往左往している。

「蟲毒だ。南は猫又だったから、西は犬神、東は化け狸、なんてこともあるかもな」

不遜にして傍若無人な九尾は、そういって唖然とする陰陽師たちをせせら笑うと、長い指をぱちんと弾く。その手元に鬼火が三つ生まれるのを、陰陽師たちは茫然と眺めているだけだった。祈祷を邪魔されたことも、結界を破られたことも、…そして何より、祈祷がちっとも効果を齎していなかったことをこの九尾に見抜かれていたことも、どれも衝撃的すぎたのだろう。

「道案内はこれがする。…惑うなよ?」

その鬼火が内裏のある北を残した三方に散った。慌てて幾人かの陰陽師がそれを追う。残ったのは長老格の老人と、静馬の兄である数馬だけとなっていた。…残りの一つ、四方の魔法陣を完成させるための蟲毒は、おそらくこの内裏のなかのどこかにあるに違いない。

「おい。…ここにある結界を探す。形はこの位の木箱で―――」
「…蟲毒による呪か。大それたことをするものだの」
「御上!お身体の具合は、よろしいのですか?」

何か言いかけた葛葉を遮る笑いを含んだ老人の声、そしてそれに覆い被さるようにして兄の声がした刹那、ふいに静馬に掛けられた呪が解かれた。彩りを取り戻した視界で、静馬は眼を擦る。未だ身体は葛葉の肩に担がれたままだったけれど、紫宸殿から姿を覗かせた鶴を思わせる老人を認め、慌てて平伏する姿勢を取った。

そこにおわしたのは、紛れもない。今上帝の姿に、相違なかったからである。かれはかつかつと笑うと、些か不本意そうな顔をして立ちつくしている葛葉の前まで歩み寄ってきた。

「相も変わらず愛想がないの、狐。少しはましになんだと思ったが」
「あんたみたいな生き妖怪の解呪なんざ、俺が出る幕もないと思ったがね。折角助けてやったのに、その言い草はねえだろう」

静馬はその時やっと、先ほど感じた呪力の正体を知った。…静馬の眼を解放したのは、葛葉本人ではない。かれだ。帝その人が、九尾の狐が掛けた呪いを祓ったのだ。

「九尾、いいや葛葉よ。…そんなものでこの呪いを視ずに済むとは、お前さんも思っていないだろうに」
「…うるせえよ」

なんと不敬な、と言いたくとも、相手が齢千を越える大妖では口の挟みようもない。かかか、と重い呪いを掛けられているとは思えないほど闊達に笑った帝の御機嫌が、よろしそうだったこともある。

「励んでおるか、静馬」
「は、はいっ!」

そしてまだ葛葉の肩にぶら下がったままの静馬にもそう声をかけ、永くこの御代に君臨する帝は若き陰陽師へと命を下した。

「宝物庫の奥に封呪のされた匣がある。ここまで運んできておくれ、数馬」
「はっ!」

兄はちらりと心配そうな視線を静馬に投げかけたあと、かれの式神を連れて足早に内裏のさらに奥にある宝物殿のほうへと向かっていった。茫然とそれを見守りながら、静馬は自分が、とんでもないことの真っただ中に立ち会っていることを、ようやっと自覚する。今上帝は穏健派として名高いが、その慧眼は有名だった。かれが直々に采配をする姿など、目にしたことはない。

「…、流石生ける妖怪、わざわざ持ってやがったのか」
「儂とてお前さんほどの永きは生きとらんがね。…先代の御代、術師争いに敗れた陰陽師がまだ東宮だった儂に掛けた呪詛じゃよ」

それまで黙って平伏していた長老が、耐えかねたように顔を上げた。静馬の曽祖父にあたる安倍清明の、甥だか従兄弟にあたるひとである。

「なれば、なればそれは、あの蘆屋道満の…!」

はっと葛葉が眼を見張り、その全身に緊張が漲るのを、静馬はしっかりと感じた。思わずかれの顔を振り仰げば、葛葉はその鋭い犬歯を僅かに覗かせ、今にも唸り声を上げそうな厳しい形相をしている。

「静馬、戻るぞ!」
「は、…え?」

静馬を強く抱え直した葛葉が、その紅い下駄でもって玉砂利を蹴る。けれどその刹那、耳を劈くような空の絶叫が京の街に響き渡った。晴天での落雷だ。この都では、変事はすべて凶事の前触れとされる。無論霹靂などは以ての外だった。静馬の胸を貫くのは、その音と、その光。雷は黒く、その目には視えていた。









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