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だれもしらない



取り扱ってる稼業が嘘みたいに白で統一されたオフィスの煩くはない穏やかなざわめきは、ばたんと開いたドアによって容易く凍結した。

「おい、この書類どうなってる」

理由は簡単。すらりとバランスの取れた、神様ってもんは不公平なんだと思わざるを得ないような美しい肢体を仕立てのよいスーツに包み、俺のボスであるあの人が突然現れたからだ。誰もがはっと身体をこわばらせ、粗相のないように周りのものを片付け出すのも無理はない。偉いひとらなんかはなにか不具合があったかと今にも卒倒してしまいそうな顔いろをしてる。それもそのはず、本来ならあのお方は、こんなところに顔を覗かせるような立場じゃねえからだ。

「…」

一応はあの人の秘書とかボディーガードみたいなもんをやってる俺だが、この部屋にはもう少し偉いひともいるっちゃいる。だから俺はそっちに任せりゃいいだろうと(それにそもそも俺は書類を作るような頭のいい業務とは縁がねえ)思っていたにも関わらず、あの見つめられると息が出来なくなる瞳が真っ直ぐに射抜いているのは、どうやら俺であるようだった。さっきまでこないだの香港での取引であの人がぶっ飛ばした机やら椅子やらガラスやらレストランの一部の損害賠償の請求について偉い人にひいこら頭を下げていた俺は、全くもって運が悪いと思う。

「何をぼさっとしてんだ。来い」
「…はい」

呼び付けられ、けれど抗う術を知らずに頷いて立ち上がってしまうのは、きっと俺がかれの盲信者だからに違いない。あの唇が俺に触れ、そしてあろうことか耳を疑う言葉を吐き出してから、俺は出来る限りあの人と二人っきりにならないようにしていたんだけど。…だって息が出来なくなって、俺は死んでしまうから。

怪我も癒え、あの人を始めとする数々の力添えもあって俺は先月から職場に復帰している。無論履歴書やなんかには(俺は生まれてこのかた書いたことはないが)書けねえような仕事だから、この顔に刻まれた醜い傷はそれほどのデメリットにはならなかった。まえよりちっとばかし荒事の仕事が増えて、んでもってさも名誉の負傷とでもいうふうに、俺はあのひとの筆頭秘書官みたいな仕事をしているふしがある。世界を飛び回るお忙しいあのひとの、膨大なスケジュールの把握や管理は、それほど苦にはならない。こころのそこから敬愛し尊敬する人のお役に立てるっていうのは、すげえしあわせなことだと俺は思っている。

「…なんだ、ふてくされた顔をして」
「生まれつきです」
「可愛くねえやつ」
「だから、生まれつきですって」

磨き抜かれた床と名前もしらねえようなうっそり茂った観葉植物、そして魔天楼を見下ろす全面窓ガラスのなにもかも、ひょっと見にはここはただの大企業だ。だけどその実ガラスはひとつひとつがロケットランチャーでも壊れねえような分厚い防弾ガラスだし、さも普通の警備員ですって面してところどころに立っているやつらの腰には実戦重視の改造されたワルサーがぶら下がってる。そんでそれらの警備員はこのお方の顔を見るなりはっと頭を下げて直立不動になるのだから、やっぱり、このお人はほんとうにすごい。

だのにその手指で俺なんかに触れるから、くつくつ笑いながらそんなことをいうから、俺はどうしていいか分からないのだ。最初こそそんな俺になにかを言おうとしていたこのお方も、最近ではどうやら俺をからかうことに心血を注いでいるふしがある。ロスへ飛ぶヘリも上海への自家用ジェットも、どちらも俺にとってはいたたまれない空間なわけだった。終始こんな感じでからかわれては、心臓が持たない。隣に座ってるだけで多少脳溢血を起こしちまいそうなのに。

「不備がありましたか。…俺じゃお役には立てませんが」
「ああ、んなの嘘だ嘘」
「…は?」

何つったこの人。思わず間抜けヅラをして聞き返した俺の面がツボに嵌まったらしいかれはひとしきり笑ったあと、イタリアにでも行ってピッツァを食べたい気分になった、などと、とんでもねえことをおっしゃった。はあ?と声を張った俺の口を掌で塞ぎ、あの方はひどく楽しげに笑う。

「いい考えだろう。ついてこい」
「ちょ、待ってくださいよ、連絡は」
「要らねえよそんなの。…お前ははいわかりましたって、それでいいんだ」
「…」

そう言われてしまえばそもそも俺に選択権などない。俺に秘書課のボスみたいにこの人を怒鳴りつける気概など無論ないし、あっても無理だ。

「…はあ。」
「顰めっ面すんなっての」

屋上にあるヘリの格納庫へのエレベーターの昇降ボタンを、躊躇いなくそのきれえな指が押す。俺は眩暈を覚えながら、頷いた。かれの指がそれから俺の鼻を摘まむから、思わず後ずさってしまう。

「はは、変な顔」
「…放っておいてください」
「いいじゃねえか、褒めてんだよ」

この人の美的感覚は、ほんとうにわからねえ。一度鏡をのぞき込めばたちまち神話みたいに恋に落ちてしまったって不思議じゃねえようなかんばせをしてらっしゃるくせに、こんなちんくしゃみたいな俺を好きだっていう。その目にかかっているいろめがねを、俺にも見せてほしいくらいだった。

「あなたは、きれいなものに見慣れすぎてるんですよ」
「…そういうんじゃねえんだけどなあ」

鈍いよなあ、おまえ。心底しみじみといったその言葉だって学のない俺にゃよくわからねえ。だけど俺の肩を抱き寄せたあの人が俺の額の端に音を立ててキスしたもんだから、俺は目の前が真っ暗になった。









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