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「娘には手を出さないで!」

下卑た視線を前に両手を広げて、大公夫人が叫んでいる。壁際まで追い詰められて、少女と夫人は二人きりになっていた。抵抗をしようとしたメイドは斬られ部屋から蹴りだされている。どうか逃げてくれていればいいが。騎士か兵士の姿を探したが、ここは夫人の部屋だった。普段から傍にかれらがいるわけではない。

いざとなったら胸を突きなさいと守りがたなを娘に渡し、夫人は震える手指を叱咤して気丈に立ちふさがっている。絶望的な状況なのは分かりきっていた。彼女は大公夫人である。いつかこんな日が来る可能性を、知らなかったわけでは、なかった。

「あと十年若かったらなあ…」

舌舐めずりをしそうな顔で、男がいう。いや、俺はまだいけるぞ、だとか、ぎゃははという下賤な笑い声を前に、夫人は握ったナイフを構えた。相手は大の男、それもひとりではない。間違いなく敵わない、だが、娘をかれらの手にかけるくらいならば、せめて一太刀。

「母さまっ!」

少女が母の名を泣き叫ぶ。立ち上がり、駆け寄ろうとした娘を母は振り返ろうとした。しかし。

「退け、下郎!」

地の底から響いてくるような、ぞっとするほどの殺意の籠った声音がそれの邪魔をする。夫人の藤色のドレスに、深紅の紋様が彩られた。亜麻色の瞳を見開いた彼女は、下卑た笑いを浮かべたまま、男たちの上体が下肢を滑り落ちるのを、たしかに目視する。

「母上、鈴音、無事か!?」

それらが倒れるのも惜しいとでもいうように、旅装を深紅に染め上げた青年が間を縫って駆けてきた。からんと夫人の指から零れたナイフが床を跳ねる。母の肩を掴み、整った顔を痛みに歪めているのは、紛れもなく。

「…郁人?」

死んだものと思え、そう言われ続けてきた、愛しい息子の姿だった。かれは息を整えると、ほっとしたように表情を崩す。泣き笑いのような表情になって、その肩越しに妹の無事も確認したようだった。

「郁人?郁人なのね…!」
「詳しいことはあとで!父上は?」
「下にいらっしゃるはずよ。…ああ、郁人…」

血の匂いとぶちまけられた臓物に、ともすれば意識を失ってしまいそうになる。だがそれには背後の娘と、今命を救ってくれた息子の存在が邪魔をした。気丈にひとつ深呼吸して、彼女は息子の肩を掴む。かれはその整った容貌に汗を浮かべ、母の手に手を重ねて微笑んでいる。最後に別れたときにはまだ子供らしさを残していたかれはすでに、一人前の男の顔をしていた。それに気付いて僅かに、母はちりりと胸が痛むのを感じる。

「無事で、よかった。…もう大丈夫だ、鈴音」

血まみれた手をちらりと見て、郁人は立ち竦む妹へ歩み寄るのをやめたようだった。彼女はうつくしい亜麻色の髪を揺らし、父や兄と同じあおのひとみで不安げに幼いころ別れたきりの郁人を見上げている。別れたときはまだたったここのつの幼子だった彼女が、今や立派な少女になっていた。

「綺麗になったね」

郁人はそれだけいうのが精いっぱいだった。嫌われるもなにもない。これは彼女の人生でも一二を争うトラウマ決定だろう。自嘲気味に思いながら、出来る限りやさしく母の手を外す。

「下の階はおそらく片付いているでしょうから…、どこか隠れられそうなところは?」
「非常時は、厨房に逃げることになっています」
「わかりました。行きましょう」

二階にあるのはほかに、郁人や兄の部屋や父の自室のはずだった。殆どが下の階にいるだろう。一先ずは最も狙われるだろう父の生死を確かめなければいけない。生死、と思ったときに心臓が鈍く痛んだが、気付かないふりをした。

剣を再び構え、郁人は二人のために足先で死体を蹴飛ばして道を造った。靴に沁み込む血の感覚はぞっとしないが、今はふたりをどうにか守れたことで胸が一杯になっている。

「…お兄ちゃん」

鈴音の声が、不安げに郁人を呼んだ。僅かに胸に痛みが走る。振り向いて笑いかけると、妹は大きな瞳いっぱいに涙の粒を溜めていた。

「お兄ちゃん!どうしていなくなったの、どうして帰ってきてくれなかったの!」
「鈴音!やめなさい!」

扉を開けると死臭がする。途端、鈴音は黙り込んでしまった。女性には刺激が強すぎるだろう。自分もそれほど慣れていない。これまで死臭が籠るとは、かなりの死傷者が出ているに違いなかった。

案の定、エントランスはきれいさっぱり片付いている。ずいぶんとなおざりな斬り方で絶命した死体が転がっていて、洸の余裕のなさを物語っていた。僅かに躊躇いながら、それでもしっかりとした足取りでついてくる母を幾度も振り返りながら郁人は進んでいる。洸のことだから残党がいないかも確認しているだろうが、念のためだ。

「…これは、だれが」
「洸です。あいつも来てます」

娘の目を覆いその手を引いている夫人が、納得したように震える息を吐きだした。それから意を決したように、彼女は息子の名を呼ぶ。

「郁人」
「はい」
「…ごめんなさい」
「え…はい?」

目を丸くして振り向いたかれの顔は、五年前とあまり変わっていなかった。きっと頬の返り血さえなければ、もっとずっとあのときのままだっただろう。

母の顔を、郁人はまじまじと見つめていた。少しやつれただろうか。今も昔も変わらぬうつくしい母であったが、なんだか小さくなってしまったような気がする。ふいに泣きたくなった。

「或人も私も、とても後悔していたのよ。お父様も、きっと…」
「やめてください。勝手に家を出たのはおれです」

聞きたくなかったから苦笑いをして、郁人は応接室の扉を開けた。同じように死体がいくつかと、それから。

「…もうすこしまともに隠せよ、ばか」

足がソファの影から飛び出ている、気絶をしたメイドがふたりいた。彼女らをなんとか引きずりながら、郁人は厨房の傍まで寄る。ドアの蝶番がぷらんぷらんしているのを見て僅かにいやな予感がしたが、いや待てよ、と思いとどまった。幼馴染のやりそうなことだ。そう思えば不思議と不安がなくなっていく。

「誰かいるか!」
「私です、だれか」

ドアを軽く叩くと、夫人がそっとその手に手を添えた。血に染まっていることなど関係なく、やさしく息子の手を握る。ほどなくして、薄く扉が開いた。

「奥様!良くぞご無事で…!」
「あとは任せた」

厨房へと入った母の背中を見送ったあと、乱雑に服で手を拭う。最後に郁人は手を伸ばし、愛しい妹の頭をそっと撫でた。

「郁人さま…」

おそらくさきに洸が来たのだろう。それほど驚いた様子はなかったが、それでも中にいたかれらは動揺をしている。笑ってそれを見た後に、郁人は黙って扉を閉めた。

「お兄ちゃん」

妹が郁人の名を呼ぶ声が、酷く重く、鼓膜に響いている。





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