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冬の気配というのは裡からくる、ということを僕がしったのは最近の事だった。まだ木々が芽を固くして冬に備える準備段階だっていうのに朝起きたときに足元から忍び込んでくる寒さ。窓を伝う結露のしずくに、こたつから出てこない背中とか。そういうのを視ていると、僕は、嗚呼冬がくるのだな、と思う。

「お、夕刊」

あったかそうなどてらを着たまま、かたかたとこたつの上に乗せたノートパソコンのキーボードを叩いていた背中が喋った。かたん、と遠くで夕刊が床に跳ねる音を、どうやらかれの耳は拾い上げたらしい。かれは健治さんといって、僕の命の恩人、そしてこの家の主である。僕がこの家に居候するようになってもうすぐ一年になるのだ、と、ふと足に触れたフローリングが冷たいことで気付かされた。数十年振りの寒波が襲った去年の冬。住んでいたところを追い出され当て所もなく彷徨って、そしてこの家の前で行き倒れていた僕を見つけた健治さんが拾ってくれたこと。食べ物を貰ってひとごこちがついたあと、かれは此処に置いてくださいと懇願する僕を見てひどく困った顔をしていたっけ。

既に勝手知ったるこの家は広い。階段を下りて玄関に向かうとやっぱり新聞紙が転がっている。拾い上げて一面をざっと見ると、大したニュースはやっていなかった。乗っているのは政治家の汚職とかそんなのばかりで、僕にはいまいち関係のない話である。健治さんにとってもそうだろう。けどいちおう目を通すのは、大人の義務なんだって、健治さんは言っていた。お前も読めよといつも新聞を渡されて、僕はそれを通して世界というものを知っている。新聞はいうなれば、この家のなかと外界を繋ぐ唯一の手段だった。僕も健治さんも、インドアが過ぎるふしがある。

「はい、健治さん」
「おー。そろそろ飯の支度か?」
「そうですね。今日は鍋にするんで、もうちょっとしたらパソコンどけてくださいね」
「わーった」

手を止めて画面とにらめっこしてる健治さんに新聞紙を手渡すと、無精髭の生えた眠そうな顔がこっちをむいた。それからそれに僕が答えれば、億劫そうに頷いて再びパソコンに向き直る。…またオセロやってるよ、この人。締切が近くなって暴れるのは自業自得だと思う。

かれは推理小説を書いている。いうなれば小説家というやつだ。結構シリーズ化していて、僕も本屋に行けば簡単に健治さんの本を見つけることが出来る。印税ってやつもそれなりに貰っているみたいで、かれが僕を養ってくれているんだけれど、暮らし向きに不自由を感じたことは一度もない。…まあ、見ず知らずの、しかも明らかに訳ありの大の男をあっさり居候させちゃうんだから、それもそうなんだろうけど。で、僕はその見返りとしてささやかだけどこの家の掃除洗濯炊事を一手に引き受けているわけだった。健治さんは僕よりだいぶ年上なんだけど、結婚していないし、彼女の気配も一切ない。そんなかれにとって生活の世話をしてくれる人間は願ったりかなったりな存在らしかった。

人参を切って白滝を水洗いして、それから昨日のタイムセールで買ってきた豚肉を冷蔵庫から取り出す。この一年で、炊事には随分慣れた。あまり思い出したくない昔を塗りつぶす生活感に、僕はひどく感謝をしている。

健治さんは、やさしい。僕に何も聞かないし、追い出そうとしたりしない。それは僕にとってなによりも安心できることだった。きっと話したら軽蔑されてしまう。僕は健治さんに失望され、見放されることが、いま、何よりも怖い。健治さんはもともと人に関する興味がものすごく希薄らしく、それはある種の性癖、エイセクシュアルに近いものだと本人も言っていた。今までそれと真逆の人間に脅かされていた身としては、それはひどく有難くて、居心地のよいものだった。こんなふうに鍋に二人分の具材を盛ってコンロを用意して、寒いなかであたたかいこたつに入って鍋をつつく。それは僕にとって、実在を信じられないくらい尊いものだったのだ。

「鍋が美味い季節だな」

パソコンを畳んで天板の上に乗ってたマウスとか灰皿とか、を避けてくれていた健治さんが、僕が運んでいる鍋一式を見てそう表情を綻ばせた。僕が来るまでものすごく不健康な食生活だったらしいかれは僕が料理を作るようになって、かなり太ったらしい。ごく稀にしか見ないスーツ姿の健治さんはそれでもしゅっとしたかっこいい大人だから、たぶん前が細かったんだと思う。だってあんな食事じゃあ人間は死ぬ。僕が初めてこの家の炊飯器を開けたときの衝撃を、未だに僕は忘れていなかった。あれは食卓にあるべき色合いではなかった。

「もう、冬だ。一年経つんですね」
「…あ? ああ、お前が来てからな」

箸を割って皿をたぐり寄せ、健治さんはさほど興味がなさそうにそう言った。そんなところもかれらしくて、笑ってしまう。それが僕を安堵させる。

「お世話になってばかりで、すみません」
「気にすんなっていってんだろ。俺も美味い飯が食えるし、部屋は綺麗だし、言うことねえよ」

ほんとに気にしてないってふうに健治さんは白滝と格闘しているので、僕はうれしくなる。こうして健治さんがこの家に置いてくれるのが、それが少しは健治さんの助けになっているのなら、とてもうれしい。最初ひとりで出られなかったこの家の外へも、最近はひとりで近所のスーパーまでならいけるようになった。だってそうでもないと、締め切り前の缶づめになった健治さんは飢え死にをしてしまう。まえはカップラーメンとかを差し入れしていたらしい担当さんも、僕に健治さんの体調管理を一任してしまったようだった。

「あの、これからも僕頑張るんで、よかったらここに置いておいてください」
「…」

僕が鍋の灰汁を取るふりをしながら、ごく自然に混ぜたはずの言葉に広がったのは居心地の悪い沈黙だった。いきなりへんなことを言ってびっくりさせてしまったか、それとも、体のいい断りの言葉を探すのに手間取っているのだろうか。びくりと身体が固まるのが分かる。僕は失望が怖い。拒絶が、怖い。それは身体の奥にまで沁み込まされたもので、やさしく穏やかな日々でもそう簡単に無くなりはしない悪癖だ。

「おいおい、一年も一緒に住んでんだ。もう家族みてえなもんだろう」

けれど健治さんが呆れたようになんてこともないふうにそんなことをいうものだから、僕は少しずつ、変わりはじめている。お玉を持ったまま言葉を失って俯いた僕に、健治さんは笑いを含んだ声で、葱がたりねえぞ、と言った。はいと頷いて慌てて立ち上がって、僕はそういえば先に切って脇に置いたまま忘れていたことに気付いて自分のミスに笑ってしまった。台所に向かえばついでにビール、と声が飛んでくる。はいただいま、って答えてから、僕は足のうらを冷やすフローリングの冷たさに、あの冬の冷たさが塗り替えられるのをはっきりと感じていた。こうやって僕のこれまで一つずつ塗りつぶしていったら、きっと最後に残るのは、この煙草臭くてあたたかい、この家なんだと思う。







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