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孤恋



――――…お前の名は葛葉だ。きれいな名だろう。ひい爺さんの母上は、じぶんをたすけた猟師に恩返しをしたそうだ。だからお前もいつか僕に恩返しをするんだぞ。




「四縦五横、吾今道を拓き往く、吾今普く天下を睥睨す、吾に背くものは滅び、吾を留むるものは死す」

身体に漲る霊力を指先に集中させ、静馬はゆっくりと息を吐いた。揃えた二本の指で宙に九字を描く。風のないはずのこの荒野を一陣が吹き抜け、土埃が舞い上がって視界を曇らせた。いまは目に見えない存在が、駆け寄ってくる気配がする。自ら封じていた結界を解き、静馬は不本意ながらぎゅっと目を閉じた。

「急々如律令!」

術式を命ずる令を唱えた途端、封じていた結界が砕けて散ったのが霊力の霧散によって目を閉じていても視認できた。ついに呪縛から解き放たれた金色が弾けるのと、そして目視できる程の質量をもった呪詛が、蛇のように意思を持って細身の体躯を飲み干そうと伸びたのはほぼ同時。

「ど阿呆!」

それを見てそう悪態をつき、霊体からようやっと実体化をした葛葉はそう短く吠えて地面を蹴る。術式の反動で茫然と立ちすくんでいる無力な男の前に降り立つと、両手を前に突き出して己の身体に満ちる溢れんばかりの霊力の一部を解放した。今にも静馬を呑み込もうとしていた蛇たちは、その霊力に完全に圧し負けて弾け飛んでいる。悪意を形にした蟲どもに形を戻した呪詛たちが足元でびちびちと跳ねているのを見て、葛葉は深く嘆息をした。

「てめえ、やっぱり駄目だったじゃねえか!何回危ない目に遭えば気が済むんだお前は!」
「僕は陰陽師なんだぞ、式神どもと相対しないでどうする!」
「そういうことは一人前に式神の一枚でも使役してから言え!」

往生際悪く暴れている虫たちを踏みつけ火種を踏み消すようにして地面にすり潰した葛葉は、霊力を解放したせいで具現したその九本の豊かな金色をした尾を揺らしながらそう低く男を怒鳴りつけた。かと言って男のほうも、空気がぴりりと張り詰めるような九尾の狐の一喝にも全く意に介した様子がなく不機嫌そうな顔で怒鳴り返してくる始末である。呆れて頬を掻き、葛葉は男をじめっとした目で睨みつけた。

名は静馬というこの男、手出しさせないように葛葉を封じ込めていたうえにこんな下等な式神に丸のみにされそうになっていた男は、血統こそ都でも一二を争う優秀な陰陽師の名門の家の末裔である。九尾としての葛葉と契約を結んだ言わば使役主でもあった。実際の立場はどうにもそれに見合ったものではないし、もちろん大妖である九尾と契約を結べるようなちからがこの男にあるわけではない。陰陽師だというのに式神のひとつも操れないのでは、道浦の道術師にすら霊力の点で劣っているというわけだ。

ならばなぜ葛葉がこんな男に使役されているかといえば、それはひとえに、この男の陰陽師としての能力がない故であった。身には大陰陽師・清明の血を引くくせに式の一つも扱えないこの男には、霊力があってもそれを放出するすべがない。だがあやかしというものは霊力に惹かれるものだ。この男は、ひどくあやかしに好かれる。無論、めったに預かれない豊富な霊力を持った食餌として。

ひょんな縁から一宿の恩をこの男に受けた葛葉は、この男によってなんの考えもなしに名を与えられ、それによってこの男と契約を交わすことになってしまった。破棄しようと思えば肩を回すほどの動作で出来るほどには男の能力は葛葉のちからには見合っていなかったが、なんとなく気まぐれにこの男が食い散らかされるのを防いでやっていたら、すでに数年の時が経過してしまっている。

「これは僕の依頼だ。手出し不要と言ったろう」
「どう考えてもあと一歩で食われてただろーが、阿呆!」
「…。どうしてこんなに有り余る霊力があるのに、ほんの少しも役に立たないんだよ」
「俺に聞くな」

男は細く嘆息をしてそう呟くと、その艶やかな黒髪を悲しげにぱさぱさと振った。水干の襟足にかかる髪が僅かな音を立てる。洗いざらしの白い水干の足元には、蟲の呪いと思しき黒い染みがいくらか跳ねてしまっていた。

従来ならばヒトである陰陽師よりも番人たる葛葉を狙うはずの式神たちは、いつも示し合わせたようにまっすぐこの男を喰らいにかかった。その身に満ちた霊力を、それも外からでも芳醇な香りのように匂い立つそれを口にするためである。今回も、そうだ。一応は名門の末席に名を連ねるものであるので、男には定期的に陰陽の力をつかう依頼が回ってくる。かれのきょうだいもかれがどんな陰陽師であるかは十二分に理解していたが、当のこの男自体が僕にも仕事をやらせてくれとうるさいのでは邪慳にするわけにもいかないようだった。

そして葛葉はそのたびに、不本意ながらもこの男の尻ぬぐいをする羽目になっているのである。明らかに実力に見合っていない下等の呪詛ばかり相手にしていて些か退屈なのだったが、だがしかしあるじたるこの陰陽師に大妖を使役するような強い術者との対決など持っての他なので、仕方がない。しゅんと肩をすぼめて足元を見つめている静馬を目を細めて眺め、葛葉は深いため息をついた。








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