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アドニス




いつも通り手際よく狩りの装束を身にまとうシルヴァを見ながら、スグリは着せかけられた毛皮に埋もれて手持無沙汰にしている。スグリのムラもこのムラも、満月の日を月の最後の日と定めているのは同じだった。そして今日は満月で、つまり今日は晦日である。それも、あたらしい年を刻むための特別な一日だった。明日からはまた新しい一年が始まる。スグリにとって、このムラに来て初めての新年だった。

スグリのムラでは新年一日は酋長の家に集まって祝賀をするのだが、このムラではそういった風習がないらしい。そのかわりにこうして一年の最後の日、月が空の真上に昇るそのときに、選ばれたひとりが山へと登り弓を射るのだという。そして今年、選ばれたのはシルヴァだった。スグリはてっきりひとりで留守番しなければならないのかとちょっと落ち込んでいたのだけれど、きのうかれにスグリもついていっていい旨を聞かされてスグリはひどく驚いた。神聖な儀式だというのに大丈夫なのかと思って聞けば、問題ないというふうに首を振られたのでスグリはえんりょなくついていく心算でいる。

弓を射るシルヴァを、実のところスグリは見たことがなかった。
初めてシルヴァと出会ったあの花畑で、かれが弓を構えていたことは覚えている。けれどもちろん極度の恐怖と緊張でかれの姿なんて覚えていないし、シルヴァはすぐに弓を下ろしたから目に刻みつけるひまもなかった。それからあの満月の夜、熊に追われたスグリをシルヴァが助けてくれたときも、スグリが見たのは弓を構えたシルヴァではない。だからスグリは、今日をとても楽しみにしている。

「スグリ」

手甲を嵌めたシルヴァがスグリを呼ぶ。頷いて立ち上がったスグリに僅かに微笑みかけたシルヴァが、その手を取って弓だとか剣、革をなめす道具が置いてある部屋へと連れていった。暗い部屋に灯りを灯し、シルヴァが壁に立てかけられていた色々な飾りのついた弓を取り上げる。スグリの身の丈ほどもあるような大弓だった。それに見合う長い矢を矢筒に入れてそれを肩からかけ、それからおそらく護身用の小弓を提げてどうやら支度が整ったようである。

それにほうっと見とれてしまってから、スグリは密かに自分でも扱えそうな弓がないかきょろきょろと周囲を見回してみた。雪が融けたらシルヴァに弓を習ってみようかと密かに画策しているのだけれど、シルヴァが頷いてくれるかはまだ分からない。もとより自分が狩りに出られるとはもちろんスグリも思っていないけれど、シルヴァと同じ世界を見てみたかったのだ。けれどまあ、見たところスグリが引けそうな弓は見当たらない。クサギの弓を借りてみたことがあったのだが、引き絞るのがやっとで的を狙うことなど無理そうだったから。

「…うわあ…」

満月の夜道には、儀式を行うシルヴァを見送るらしいひとの列が出来ていた。楽器が鳴らされたりしていて、スグリのムラとはまた違った祝賀の様子である。ほんとうについていっていいのかとすこし気後れしたスグリの手を、シルヴァが掴んで躊躇いなく進む。アザミとアカネの姿もあって手を振ってくれたから、スグリはほんの少しだけほっとした。足の下に視線を落とし、うっすらと聞きとれるシルヴァへの激励の言葉を聞く。それにかるく答えているシルヴァが、笑いながらスグリのほうを向いた気配がした。

「スグリ?」

こんな歓声のなか、顔を上げられるわけがないというのに。けれどなんとか足を進められたのはシルヴァが手を引いてくれているおかげだ。結局ムラの外を出るまでに、スグリはへとへとになってしまった。

「…スグリ、どうした?」
「……」

ぐったりしているとシルヴァに心配そうな顔をされ、スグリは苦笑いをして首を振る。満月だから足元は心配なかったけれど、シルヴァはスグリの手を離さない。そんなところにもシルヴァのやさしさを感じて、スグリは気を取りなおして雪の深い道を進んだ。ひとがたくさん、とか、はずかしい、とか、そんなことを単語で伝えると、どうやらシルヴァも何故スグリが下を向いていたのか分かったらしい。小さく笑ってから、気にすることはないとでもいうふうにスグリの手を強く握った。

冬の山を登るのは、スグリにとって初めての経験だった。シルヴァのムラに来て初めて見たこの雪山用の靴や外套のおかげで寒くはないし、しんと静まり返って足跡のついていない雪山を登るのは冒険のようでわくわくする。

身体が弱かったスグリは、ちいさいころ、同じ年頃の男の子たちが森を駆けまわっているときもずっと姉や妹たちと一緒に花を編んでばかりいた。外の世界が羨ましかったし、自分の身体がとても情けなかった。けれどシルヴァといっしょに暮らすようになって、かれがこうして衒わずに躊躇わずにスグリを外の世界へと連れ出してくれるから、スグリは前のようにもう自分の身体を恨めしく思ったりはしない。

こうして冬の山を歩く自信が付いたのも、シルヴァのおかげだった。シルヴァの足取りはスグリの身体を気遣ってひどくゆっくりだし、月明かりが雪の白きを照り返して周りはとても明るい。冬の山はひどくうつくしかった。青白く浮かぶ道に、振り返れば灯りが灯った集落が見える。山の下の森は白く静寂を保っていたが、クサギが言っていたあたらしいムラの場所だろうところはうっすらと明らいでいるのが分かった。あの場所で家族たちは、しあわせに年を越せているだろうか。きっとしあわせでいてくれる、と思いながら、スグリはそっと視線を上に持ち上げる。

冬の夜空。満天の星。満月の輝き。神聖なほどの輝きを持って、うつくしい空が広がっていた。

思わず足を止めたスグリに、シルヴァが気付いて立ち止った。それからスグリの視線を辿り、空に気付いて息を呑む。ムラのなかでは明かりで気付けないような僅かな星の輝きすら辿ることが出来る空に近い山の景色は、山に慣れているシルヴァにとっても幻想的なものであるようだった。

「…きれいだ」

そしてシルヴァが、そうぽつりと吐き出す。うん、と頷いて、スグリはまたそっと歩きだした。きっと山の頂の景色は、もっともっときれいだ。シルヴァはスグリがそういうと、頷いてまたその手を握る。二人分の足跡が連なった背後を一度振り向いて、スグリはまだ行ったことのない山頂に思いを馳せた。

この山は、さほど高い山ではない。山頂ももうほどなく辿りつくだろうと思われた。ほうほうと遠くで鳥の鳴き声がする。夜行性の動物たちの気配は先ほどから絶え間なくしていたけれど、スグリには不安はなかった。シルヴァが自分を連れてきた、ということは、今日、危険なことはなにひとつない。そんなふうに、スグリはなんの疑いもなく信じることができる。

「スグリ」
「うん?」

しばらく歩いたところでふいにシルヴァが足を止め、それからスグリの頬に手指を寄せてあわく笑って声をかけた。淡雪が舞い始めた静寂のなかで、かれがスグリに告げたのは。

「来年も、その先も―――」

というような、そんな一言だった。けれどそれはいつもならスグリに聞きとれるようにゆっくりと喋ってくれるかれらしくもなく早口で、スグリは最初のほうしか聞き取れないで必死になって聞き返す。たぶん一番流暢に話せているはずの「今なんていったの?」ということを何度も言ったのに、シルヴァは笑って取り合ってくれなかった。スグリの手を引いて、どんどん先へ進んでしまう。

「…シルヴァ」

何度聞いても駄目だったので、スグリは意趣返しをしてやろうと決意をする。さくさくと雪を踏みしめながら、ひどく満ち足りてこうふくな気分で。

「これからも、ずっとよろしく」

胸が詰まってしまうようなくらいのしあわせを、そうやってスグリは言葉にして吐き出した。もちろん自分の言葉で言ったから、シルヴァには通じなかっただろうけれど。

「スグリ」

今なんて言ったんだ、と問われても、勿論スグリは笑ってばかりで答えない。諦めたようにシルヴァは笑って、それからぎゅっとスグリを抱きしめた。きっと言葉は通じなくても、伝えたかったことは通じたのだと思う。さっきシルヴァが言った言葉が、スグリの胸をひどくあたたかくしたように。









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