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適当に私服に着替えて部屋を出た。カード型のルームキーと携帯だけをポケットに突っ込んで、あてもなく深夜二時の学園を歩き回るのも悪くはない、と思ったからである。生徒会のメンバーの寮の部屋は見回りがあってないようなものだから、拍子抜けするほど簡単にそとへと抜け出せた。

夜の風は、さすがにすこし肌寒い。一般棟と食堂棟の間にある中庭にでも行こうか、なんて思いながら、悠里は一般棟までの僅かな距離を身体を抱くようにして歩いた。勿論ひとの気配は少しもない。普段なら不気味だ、とでも思ったかもしれないが、悠里にそれを考える余裕はない。いまは悪夢を頭から追い出すため、考えなくするためで手いっぱいなのだ。

あの夢で。

幼い悠里はいつも、恋を、愛を失う。愛されたせいで、愛したせいで、たいせつななにかは、悠里から遠ざかる。だから怖い。

常夜灯だけが灯る暗い廊下のガラスに、塞いだ自分の表情が映っている。これではだめだと首を振って、悠里はかたくなに唇を噛んだ。これではだめなのだ。いつまでもこのままでは、いけない。折角数歩歩き出せたのだ、もっと進まなければ。いい加減にあの夢に、怯えるだけではいけないことはわかっている。わかっているからこそ、つらい。

辿りついた中庭で、悠里はベンチに腰掛けて月が浮かぶ空を見た。ちょうどこの時間に真上に出ている欠けた月と、かすかな光に照らされた花たちがひどく幻想的な空間を作り上げている。麻里には『残念ながら夜の秘密の逢瀬はなかったよ』とでもメールしておこう、と思いながら、悠里はそんな光景にほんの少しだけ心を浸す思考がなりを潜めるのを感じていた。

いつだって妹はやさしい。…きっとこんなことまで見越して、悠里をあの部屋から連れ出してくれた。学園祭で久々に会う彼女は、いったいどうなっているだろうか。相変わらずの闊達さで、悠里を微笑ませてくれるだろうか。それともすこし大人っぽくなっているのだろうか。考えていたら、すこし気分がよくなった。いつだって悠里を悪夢から連れ出してくれたのは妹だったことを思い出す。

足音が聞こえてきたのは、ちょうどその時だった。悠里は思わず身構えて、『氷の生徒会長』の仮面を被る。たいせつな妹が作ったあのマニュアルのことを考えると、どんなイベントが巻き起こってもおかしくなかった。けれど悠里には柊と違って武力でなんとかするという選択肢がないので、かわりに頭をフル回転させる。こういうときには、君臨する生徒会長としての振る舞いをしておくに限った。誰だ、と低く地を這う声音で問えば、中庭の扉を開けた人物の影が僅かに身動ぎをする。眼鏡をしていない、しかも寝起きだったせいでコンタクトレンズもつけていない視界で、悠里はその輪郭を捉えようと目を凝らした。

「…悠里」

その声を、悠里は知っている。思わず応える言葉を失くした悠里の傍まで寄ってきた影は、端正な顔立ちに笑みを綻ばせて隣に腰掛けた。何度か瞬きをして、十分にその顔を認識できる距離まで近づいても、予想外の相手すぎてうまく言葉が出てこない。

「やっぱり悠里だ。どうしたんだよ、こんな夜中に」
「…秋月」

…一つ年上の同級生は、ぽん、と悠里の膝に手を置いてその表情を覗きこんできた。かれの前では保つべきであるはずの氷の生徒会長の仮面がぽろりと外れてしまうのを感じながら、悠里は項垂れる。お前こそどうしたんだ、とか、言いたいことはたくさんあるのに言葉にならない。ならないから、黙る。秋月はそれ以上何も聞かずに、まるで全部しっているみたいに悠里の背中をぽんぽんと叩いてくれた。その手がひどくやさしい。

「無理に話さなくていい。…そばにいても?」
「…構わない」

悠里が辛うじてそれだけ吐きだすと、秋月は言葉通りなにも聞かずになんとなく隣に座って月を見上げているようだった。けれど掌だけは背中にかかったままで、そしてその熱がじわりと悠里の言い知れぬ不安を融解させてくれる気がする。ひとの熱というものは確かな質量を伴って、悠里のそばに寄り添った。

「秋月、お前はどうしたんだ?」
「ちょっとな。何か飲み物買ってくる。炭酸じゃなきゃ何でもいい?」
「…何でも」

ん、と軽く頷いた秋月が、中庭を出てすぐにある自販機のほうへ歩き出すのをぼんやりと見送る。―――これじゃまるで秘密の逢瀬だ、なんてちょっと思いながら。けれど妹に言うのは止めておこう。かれが悠里に対して抱くのは、恋や愛では決してない。

ほどなくして戻ってきた秋月が悠里に投げ渡してくれたのは林檎ジュースだった。オレンジより林檎のほうが好きなのでちょっと嬉しくなる。…そういえばどうして秋月は、悠里が炭酸が苦手なことを知っているようなことをいったのだろう。無意識のうちに避けていたのだろうか。なんとなく『氷の生徒会長』が炭酸苦手だとかカッコ悪いなあ、と思いながら缶を開いて口をつけた。喉を下る冷えた液体がここちよい。

「ありがとう」
「おう」

嬉しそうに破顔した秋月の手にあるのはコーラだった。よくこんな夜中に飲む気になるものだと思いながら、悠里は手の中の缶を弄ぶ。いっそかれに悪夢のことを話してしまおうかと、悠里はそんな気になっていた。秋月は悠里に、恋をしたりはしないから。きっと笑い飛ばしてしまうに、違いなかったから。

「…夢を見たんだ」

そして悠里は、もしこれが昼間で、落ち着いていたならば決して言わなかっただろう一言を考える間もなく口にしていた。氷の生徒会長には似つかわしくない一言だったし、愛を恐れる東雲悠里にしてもひどくらしくない、そんな言葉を。









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