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小学生のころって何してたっけ、と思ったのは、なんとなく部屋に戻って読みかけの本に手を伸ばしたせいだった。その本が、太宰治の著書であったから。雅臣が小学生のころすきだったという、それ。

―――小学生のころ、どんな本を読んでいたっけ?

あたりまえに辿りついた思考で、悠里は愕然とした。小学生のころ。昔を振り返ること。無意識のうちに避けていたそれに、なんの熱も籠っていないことに驚いて、自分でひどく動揺をした。悠里はいつも、あまり昔のことを思い出さないようにしている。深層心理のうちでそれに危機感を抱いている、と言ってしまってよかった。

なにか嫌なことがあったのかと言われればそんなことはない。第一とりたてて何も覚えていないのだからそんなことがあるはずはない。けれど悠里の記憶は、中学一年の夏ごろから始まっていた。中学といえば、ごく普通の学校生活のほかに悠里を取り巻くひとつの遑しい記憶。

『悪夢』であった。

その晩、悠里はひどく久々にその悪夢を見た。脂汗をかいて飛び起きて、跳ねる心臓を掌で押さえつけて呻く。数え切れないくらい何度も繰り返し見た、忌まわしい悪夢だ。

そこで悠里は、走っている。なにか大切なものを喪って、喪うと分かっているのに取り戻そうと走っている。長い長い道だった。その背が見える。手を伸ばす。一瞬、その大切なものを掴めたような気がする。そして、唐突に悠里の手はそれを取りこぼすのだ。

夢を見ている間はもっと鮮明に覚えている気がするのに、起きてしまえば夢のことはその程度しか覚えていない。中学のころひっきりなしに見ては言い知れぬ不安と恐怖に震えたその夢を見るのは、思えばこの学校に来て以来初めてだった。そう考えると、あのマニュアルは悠里に多大な影響を与えているのだとわかる。おさまりのつかない心臓の鼓動に、悠里はたまらず携帯に手を伸ばした。ベッドの上で膝を抱えて、だれかに連絡をしようとその『だれか』を探す。きっと呼んだら応えてくれるだろうひとは、何人か見つかった。けれど電話をすることは、どうしても出来ない。

―――それは。
その夢こそ、紛れもなく悠里が『ひとを愛すること』を恐れている理由だったからだ。

無償で愛を与えられ、やさしくされて、それでもそれに何も返せない。その理由こそ、大切だと自覚してすぐ喪った夢のなかの『なにか』への喪失感なのだ。悠里は夢の中の『あれ』を、紛れもなく愛していた。名を付けるのなら恋だった。だけれどそれは、悠里の手のなかで消えてしまうのだ。いつも。

だから、こわい。悠里はそれを現実に持ち込むのが、ひどくこわい。愛とか恋を現実の世界で見つけてしまえば、悠里はそれを失ってしまうような気がしていた。たかが夢を、と笑い飛ばすには、中学に繰り返し繰り返し見た悪夢は悠里のこころの反射の部分にまで刷り込まれていた。

恋をして愛をしたら、いつか悠里はそれを、夢のなかのように失ってしまうのかもしれない。せっかく手に入れた心地よくて大切な場所を大切な人を、またああして掴み損ねて失ってしまうのかもしれない。それだったらいっそ、何もかもそのまま宙ぶらりんにして甘えているほうがいい。そんなふうにいつのまにか悠里の『愛をする箇所』は決めつけているようだった。だから悠里はなにも選べない。選択を迫らない周囲の優しさに溺れて、それでも笑い掛けてくれることに甘えて、心のどこかで罪悪感を覚えたままこのままでいられたらいいなんて思っている。

ちかちかと網膜に焼きつく携帯の光をじっと見つめていた悠里は、いつも目覚めて鬱鬱と震えているときに慰めてくれたのが麻里をはじめとする家族だったのを思い出す。迷惑だと、妹はとっくに寝ている時間だと分かっていて、悠里はそれでもかのじょへ通話せざるを得なかった。手指が震えて、強張っているのが自分でもよくわかる。

「…もしもし、麻里」

予想に相反して、通話はあまり待たずして繋がった。眠そうな声で答えた麻里が、悠里の声を聞いてにわかに喋り出す。勘のいい彼女のことだ、こんな時間に悠里が電話をしてくる時点で理由に気付いたに違いなかった。

「お兄ちゃん?」
「うん。…声、聞きたくて」

ごめんな。言えば、麻里はううんとそっと笑ってくれた。だいじょぶだよ。夢を見たの?ひたひたと悠里のこころを安堵に漬ける聞きなれた声が、ひどく心地よい。

ひととおり他愛のない話しをして満足して、悠里はありがとう、また、といって通話を切ろうとした。恐怖が消え失せたわけではないが、ひとりの部屋の沈黙に耐えられるくらいにはこころは平穏を取り戻している。けれど麻里は、まだ心配そうにしていた。中学生のころとは違うよ、といっても、もうすこし、と言ってくれる。やさしいな、と思う。とてもいい娘だ。趣味の面さえなければ、もっといい娘なんだけど。

「…うん、じゃあ、また。気分転換に散歩でもしてみたら?夜の秘密の逢瀬とか見つけたら教えてよ」
「なんだよそれ。…わかった、そうする。またな」

それもいいかもしれない、と思いながら通話を切った。夜の逢瀬云々はべつにしても、この部屋から出て公共の空間に身をやることは、――殊更悠里にとっては『氷の生徒会長』の仮面を被ることによって、夢から悠里を現実に引き戻してくれるような気がしたから。







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