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「おれと共に生きてくれ、マヒロ」
そういってカザハヤはその瞳をわずかに弛ませて、いとおしむような目でマヒロを見た。息が出来なくて目を見張ることしか出来ないマヒロの髪に、カザハヤが頬を寄せる。
「ほう、あのカザハヤ殿が人間を請うだなんて。そんな人間に相手をしてもらえるなんて、私は光栄だな」
ぎし、と肩口で着物の生地が鳴く。マヒロからそっと身体を離したカザハヤの顔を見上げ、マヒロは思わず身体をすくめた。いつも柔らかいカザハヤの眼差しが、なんの感情も灯らない刃のように鋭く細められている。
「今夜は楽しませてもらおうか。壊してしまわなければいいのだけれどな」
そう男が哄笑した瞬間、カザハヤは見たことのない獰猛な顔をした。鋭い牙がその口元から覗き、貴様、と低い唸り声を上げる。今にもその喉笛に噛み付きそうなカザハヤに空気が極限まで張り詰めたその時、緊迫した空気を破るように、廊下の向こうで障子の開く音がした。
「やあやあ狐の。奇遇ですな」
姐さんを伴って番台の前まで歩いてきたのは、カザハヤの上司である狼族だ。まだかれが部屋を出るような時間ではないから驚いてマヒロが目を見張っていると、姐さんがウィンクしてくれる。
「これはこれは狼の」
余裕そうな笑みはそのままに、けれどその瞳に警戒を湛えた狐族は、身体ごとそちらに向き直った。年の頃は同じように見えるから、狐にも若造を丸め込んでやろうという嘲りは見受けられない。
「ところで兎のところとの遣り取りはどうなったのでしょうかな?」
「…さあて、聞いたこともごさいませんな」
途端べつの緊張感を帯びた場に、マヒロは息を詰めた。守るようにぎゅっと抱きしめてくれるカザハヤの腕が切なくて、泣いてしまいそうになる。耳のそばでカザハヤの心臓が、大きな音を立てていた。
「ほう。梟の話によると、随分と強気に出ているようだったがね。私もてっきりそう思って、明夜あたり蛇のところと話をしようと思っていたところだ。おたくに関わりがないのなら、獅子も誘ってよさそうかな」
先ほどまで余裕を隠そうともしなかった狐の顔が、一気に蒼白になった。なにかいいかけたかれを遮るように、シルバーグレーの尾を機嫌よさげに振った狼族の重鎮が笑い声を上げる。
「どれ楼主。すこし電話を貸してくれるか。虎のやつとも久々に呑みたいものだからな」
どうやらこれがとどめだった。すっかり萎縮しきった狐族の男の尾が下がり、かれは取り巻きに合図をして踵を返す。なにがなんだかわからなくてマヒロがカザハヤを見上げると、カザハヤは唇を震わせてかの大狼を見ていた。
「おやおや狐の。どうかなされたのかな?」
「いいや、すこし、用事を思い出してな」
「そうか、それは残念。私はよくこの廓に来るからね、次に会ったらとくと話しましょう」
鋭い舌打ちがしん、と静まり返った春華楼に響き渡ると同時、狐たちは俊敏な動きで外へ飛び出して行った。狼族の隣に立っていた姐さんが玄関に寄って行って、ぴしゃりと扉を閉める。塩まで撒いていた。
「…」
マヒロの腰に回った腕に、ますます力が篭る。おずおずとかれの腕に縋りつくと、カザハヤが張り詰めていた息を長く吐いた。それからその瞳を、政界すら牛耳る大企業の社長へ向ける。
「…、ありがとう、ございます」
「なに、カザハヤさえ黙っていてくれれば私は週に二度や三度ここに来れるのだからね。それに比べたら賢しらな狐を黙らせるなんてお安い御用だ」
かかか、と笑って上機嫌そうなかれは、姐さんの腰を抱いて再び部屋に戻っていった。なんだか夢でも見ているみたいな気持ちでもってカザハヤを見上げると、かれの瞳が切ないくらいに優しく細められる。
「マヒロ、…さっきの、答えをくれ」
どうすればいいかわからなくてそれでも頷いてもいいんだということだけは理解をしたから、マヒロはゆっくりと息を吐いて、はい、と頷いた。ぎゅっと強く抱きしめてくれたカザハヤの広い背中に縋り付く。とりあえず、幸せだということは理解していた。
この律儀な狼族の男は、宣言通り今はマヒロになんにもしなかった。いつも通りの番台のそばの椅子に座って、けれどマヒロのかわりに楼主と相対している。マヒロといえば、カザハヤの隣で小さくなっていた。交わされている会話はマヒロの身請けの話らしい。
そもそもマヒロは花魁でも新造でもないのだから、身請けという言葉自体があてはまるのかマヒロにはわからない。楼主もまたどうすればいいかわからないらしく、幾らでも用意はあると真顔でとんでもないことを言っているカザハヤにはあ、と相槌を返しているだけだった。結局番頭と相談してきますといって禿頭を拭き拭き番台のなかに駆け込んでいく。ぱたりぱたりとゆっくり揺れているかれの尾が背中を叩くのが、とっくに着替えてしまったいつもの小間使いの格好だとくすぐったくてしょうがなかった。
「マヒロ」
「は、はい…?」
「…、おれが女を買わなかったのは、おれがここに、おまえと話すためにきていたからだ」
生真面目な獣人が生真面目な顔をして言い出すもので、マヒロはどうしていいかわからなくてひどく狼狽えた。かといって混乱があったせいと狼族の社長への感謝のために貸し切りになってしまった春華楼のなかでは助け舟をくれそうなひとはいない。仕方なくこくん、とひとつ頷いて、マヒロはゆっくり顔を上げる。
「この間、おまえが来るなといったから、おれはおまえに嫌われたのかと思った。だから今日は、ほんとうは力づくでも繋ぎとめたくて、おまえを買うつもりでいた」
律儀なかれの言い様に、どうしていいかわからない。華の無い、女でもないマヒロにどうしてかれが目を留めてくれたのか、なにひとつわからない。
「廓の外の話を楽しそうに聞いているおまえを見て、いつか外に出してやりたいと、ずっと思っていたんだ」
そういって頬を撫でてくれたカザハヤの指には、マヒロのことなど一息で殺めてしまえそうな鋭い爪がある。けれどかれはひどく繊細な指先でマヒロに触れるから、なんだかとてつもなく大事にされている気持ちになって、マヒロは胸がいっぱいになった。
「色んなものを見せてやる、これからずっと」
「…はい」
息が止まりそうなくらいに嬉しくて、マヒロはそう答えるのが精一杯だった。はらはらとかわりに涙が溢れては落ちるのを見て、カザハヤがひどく動揺をする。ぴくりとかれの銀色の耳が跳ねた。
「ま、マヒロ、何で泣くんだ?…、おれは、おまえが嫌なら、無理強いはしたくない」
「ち、違います、違うんです」
ただ、嬉しくて。そうやって言うと寸の間めんくらった顔をしたカザハヤが、強く強く抱きしめてくれた。その背中に跡も残せない丸い爪で、けれどできる限り精一杯つよくしがみつく。
カザハヤの生きる世界が、見てみたくてしょうがなかった。
鶺鴒はかく囀り
完
こいおしえどりはそううたった