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途端マヒロの胸に暗雲を齎した十日後は、あっという間に訪れた。きらめかしい衣装を纏っても貧相な身体がどうしようもなく浮いてしまうのは仕方がなくて、マヒロは仲の良い姐さんの鏡台を見ながらため息をつく。素人好みなんてせせこましい獣人ねだとかおとなしくしていればすぐ終わるから頑張るのよだとか、憐れむように代わる代わる姐さんたちがマヒロを励ましてくれる。この衣装を貸してくれたのも違う姐さんだった。

「一番客が来たぞ、指名だ」
「あいよ」

来客を告げる鐘が撞かれ――いつもならそれを鳴らすのはマヒロなのだけど――部屋を間貸してくれていた姐さんが早速呼ばれた。姐さんはこの部屋で客を取るから、マヒロはここを出ていかなければいけなくなる。地味な顔が好きというくらいなのだから化粧はいいでしょう、頑張るのよ、と背中を押してくれた姐さんに頭を下げ、マヒロは慣れない着物の裾に転びそうになりながら廊下に出た。

萌葱の着物は重く、女でもないのに、と思う気持ちはマヒロのこころにそれよりもっと重積している。見たことも無い獣人と二人きりで相対するだけで泣きそうなのに一夜買われるとなればなおさらだった。怖いし不安だし情けないし、そしてもうマヒロは、先ほど姐さんを買ったのがカザハヤの上司だと気づいてしまっている。

「…」

逃げ出したい。こんなにも強く思うのは、なぜなのかと思う。カザハヤのことばかり考えていた。なんて身分違いな恋なんだろう。相手は身分違いの獣人で、しかも美しい花魁ですら抱きはしないのに。

廊下は少しさわがしくて、妙に人恋しかったマヒロにはありがたかった。狐族が来るまでだれかのそばにいたい、と思って知り合いの花魁を探す。ほんとうに話をしたい相手はとうに思い当たっていたのに、それを探すことはどうしても怖かった。

「…マヒロ?」

ずきん、と胸に、刺すような痛みがあった。咄嗟に顔をあげると廊下の向こう、いつもの場所で座っているカザハヤの姿。マヒロのかわりにほかの姐さんが相対している。騒がしかったのはどうやらあそこだったらしい。カザハヤの声を最後に、春華楼がしんと静まり返った。

「…、カザハヤさま、」

なんで。お願いだから、来ないでっていったのに。言いたかったのに言えなかったのは、かれの耳がぴんと立っていて、いつも穏やかに揺れているかれのゆたかな尾が天をさしているからだろうか。

「マヒロ、聞きたいことがある」

立ち竦んでしまったマヒロに、ぴりりと張り詰めた声が掛けられた。咄嗟に踵を返して逃げだしたマヒロに、ああかれは獣人なのだったと思わせる驚異的な速さでかれが駆け寄ってくる。かれらの種族は、ひどく足が早い。

「狐に買われると聞いた。おまえも同意していると。本当か?」

裾を踏んで転びかけた肩を掴まれる。着物が分厚いから、マヒロはかれのてのひらの熱を感じることが出来なかった。うつむいて膨らみのない胸のせいで見栄えの悪い胸元とをじっと見下ろす。無言を肯定ととったのか、カザハヤがぎっと牙を噛み締める音が聞こえた。

「この間のことは、これだな。どうして黙っていた」

もうだめだ、とマヒロは自覚したばかりの淡い恋の終わりを感じた。知られてしまった。きっと軽蔑されてしまう。獣人に抱かれたマヒロとは、きっともうまえみたいに話してくれなくなってしまう。むしょうに悲しくて、マヒロはぎゅっと着物の裾を握りしめた。酔狂な狐族を、ひどく忌まわしく思う。

「…カザハヤさまに、軽蔑されたくは、ありませんでした」

あなたのことが、好きでした。言えたらどれだけ楽だろう。けれど張り詰めた春華楼のなかに供を連れた狐族が入ってきたから、それをいうことは出来なくなってしまった。カザハヤよりずっと年嵩の、好色そうな狐族の男が、カザハヤとマヒロをにやにやと眺めている。

「これが私の今宵の相娼か?」
「は、はい…」

答える楼主の声が硬い。というのも狐族の男とカザハヤの会社がライバル同士だということをかれはしっていたからだが、マヒロは先ほどよりさらに険悪になったカザハヤの纏う雰囲気にすっかり泣きそうになってしまっていた。

「私好みだ。こっちにおいで」

マヒロはのろのろと頷くと、重い足を引きずってかれの前へ行こうとした。狐の金色の尾が、機嫌よさげに揺れている。ああ俺はカザハヤへの意趣返しに使われたのだなとなんとなくそれはわかったから、もう、カザハヤとまえのように過ごせることはないのだということは理解している。胸が張り裂けそうだった。いっそ鳥人のような翼があったなら、飛んで逃げてしまえたのに。

けれど。

「…カザハヤさま」

狼族の鋭い爪が、厚い着物の生地をしっかりと捉えて離さない。マヒロが弱々しく首を振ると、ついにカザハヤの腕がマヒロの腰に回って強く引き寄せた。大きなカザハヤの胸にすっぽりと収まってしまって、マヒロはどうすればいいかわからなくなる。

「話がある、マヒロ」

人間は買わないのではなかったのかな、と、狐族の男は下卑た笑い声を立てた。どちらの肩を持っていいのかわからない楼主が困り果てているし、花魁たちは乱闘が始まったときの為に用心棒たちを呼びに駆け出していた。マヒロはけれどカザハヤに抱きしめられているのがこんなときなのに嬉しくて、なにもいえずに俯いている。

「楼主。私とあの子の部屋は何処かな」
「は、はい…」

困り果てた楼主とにやにや笑いの狐族を交互に見て、マヒロは力無く首を振った。

「いま、いまは、駄目です」
「…、マヒロ」
「ごめんなさい、俺は、カザハヤさまのことが好きで、だから」

どうせもうまえみたいに戻れないなら、とかれにしか聞こえないような小さな声で呟いて、マヒロはカザハヤの胸を押しのけた。代わりに腕をのばしてきた狐族の男の腕がマヒロの腰を抱く、その刹那まえに。

「おまえの今はいらないから、代わりに永遠をくれ」

そう囁いたカザハヤの腕が、今度は抱き潰されてしまいそうな力でマヒロの身体を引き寄せた。その言葉が、熱い吐息が、マヒロのこころを熱く焦がす。息が出来なくなって、マヒロは小さく酸欠に喘いだ。









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