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そんなマヒロにとんでもない話が持ち上がったのは、それから十日ばかりたったある日のことだった。楼主に呼び出されなにか粗相をしたかと縮こまっていたマヒロに大変苦々しい顔をしたかれが言ったのは、

「おまえを買いたいという打診があった」

という一言だった。マヒロはあまりに予想外だった一言に思わず素っ頓狂な声をあげたし、楼主も想像もしなかった申し出に困りきっているし、で収集がつかない。なんとか聞き出したところによるとさる企業の会長、もちろん獣人で、種類はといえば狡猾で知られる狐族の方だというが、が男色家であるらしい。そして人間を所望ということで、春華楼に白羽の矢が立ったと言うわけだった。

「なにもここじゃなくたって、ほかの廓にはそういうお店だってあるでしょう…」
「わかっている、だが、先方は素人がいいというんだよ。おまけに顔は地味なほうがいいというんだ」
「いや、たしかに、俺は地味ですけどね…」

まさか自分が姐さんがたの立場になるなんて夢にも思わなかったマヒロだが、親代わりの楼主に頭を下げられてしまっては断れるわけもない。けれど、いつぞやマヒロの胸ぐらを掴んで投げ飛ばした猪族や目が合うだけで死にそうになる獅子族のことを思い出すと怖くてたまらなかった。ここ春華楼では乱暴な客こそ滅多にいなかったが、相手がきらびやかできれいな姐さんたちでなくマヒロなら、どうなるのかはちっともわからなかった。狐族の獣人は滅多にこの廓には足を運ぶことがなかったせいもある。獣人同士にも遊郭に縄張りがあるのか、とマヒロはぼんやり思っていたものだったが。

登楼は十日後を予定しているらしい、と楼主は言った。準備やなにかはするな、というお達しだからおまえはこころの準備さえしてくれればいい、と言われたはいいものの、マヒロはちょっとした頭痛すら覚えて満足に頷くことも出来なかった。

「…マヒロ、何かあったのか?」

そして例によって社長のお供でやってきたカザハヤは、上の空のマヒロを気遣わしげに声をかけてくれた。社長はだいぶ前にお気に入りであるマヒロと仲良しの姐さんと、睦まじげに部屋に向かっている。社長はいつもマヒロになにがしかのお菓子をくれる、陽気で人気のある狼族だ。せめてかれやカザハヤだったら怖くないのに、なんて思いながら、マヒロはこんな内部事情をかれに打ち明けていいものか、すこし悩む。

しかもカザハヤは廓で獣人が人間を買うことをあまりよく思っていないようなのだ。マヒロが花魁たちと同じように獣人に買われたとしったら、軽蔑されてしまうかもしれない。それはいやだ、と思う気持ちも、あった。かれに軽蔑はされたくない。せめてかれの前でだけは、ただの地味で陽の当らない小間使いでいたい。

「いえ、あの、対したことは」
「…何かあったんだな?また客になにかされたのか」

かれは大きな手のひらでマヒロの肩を掴むと、ぎゅっとその眉を寄せて心配げな顔をする。そんな視線が心地良いけれど辛くて、マヒロは黙って俯いた。人間を嫌っているふうには、みえない。けれどならどうしてこの廓に一度も登楼ってくれないのだろう、いつもならぷくぷく胸のなかに浮かび上がるだけだったろう考えがふいに喉元までせり上がってきた。

「カザハヤさまは、どうして花魁を買わないのですか?」
「…望まないからだ。好きでもない者と一夜を共にして、何になる」
「……そうですよね」

一夜の興のために大枚を叩く獣人や、ちょっとした興味から小間使いにまで手を伸ばす獣人もいるというのに。やはりカザハヤは特別なのだ、とマヒロはまつげを伏せた。

「どうして急にそんなことを?」
「…いいえ、ごめんなさい。急にそんなことを聴いて」

ゆるやかな諦観が胸を浸していく。マヒロは人間で、マヒロを買うという狐族は獣人なのだ。きっと獣人にマヒロを買う特別な理由は無いだろう。ただの酔狂。ただの余興。それだけだ。姐さんがたも天井の染みを数えていればすぐに終わるわよ、と言ってくれた。人間なのだから仕方ない、諦める他ないのだ。マヒロはきっと大丈夫だと思う。そのあとかれと、カザハヤと、いつも通りに接することさえできれば。

「…マヒロ」

束の間の夢を楽しんだかれの上司が、花魁に付き添われて長い廊下を歩いてくる。上機嫌そうなその長い尾が揺れているのを見ながら、マヒロはカザハヤを見上げてゆっくりと瞬きをした。

「…はい、カザハヤさま」

かれの名を呼ぶと胸がじくじくと痛む。マヒロにたくさんのことを教えてくれる、優しい獣人。かれだったらよかったのに、ともう一度考えて、カザハヤにひどく申し訳ないと思いながらマヒロは瞬きをしてかれを見上げた。

「…次は、十日後に」

胸がぐっと苦しくなる。マヒロは咄嗟に心臓のあたりを押さえ込んだ。それからかれの精悍な顔を見上げ、泣きそうになりながら首を振る。

「だ、駄目です」
「…どうして」
「…カザハヤさま、後生ですから、その日だけは、来ないで」

かれに知られたくはない。この廓の豪奢な部屋でありもしない天井の染みを探しながら、壁を数枚隔てただけのかれを思うのだけはいやだった。もし、もしも狐族と一緒に長い廊下を歩いてくるところを、カザハヤに見られてしまったら。

「…どうして。おれと話すことが、いやになったのか」
「カザハヤさま、お願いですから…」

かれとの関係だけは、汚したくなかった。








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