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32



「スグリ!」

名を呼ぶ声がしたのは、その時だった。スグリの耳朶を震わせる、冷たい夜風に凛と響くその声が空間を穿つ。スグリははっとして顔を上向けた。ぐらりと揺らめく視界のなかで、その声の主を探して必死に目を凝らす。

「…!」

背後で恐ろしい悲鳴が上がったのは、それとほぼ同時だった。スグリは思わず背後を振り向いて、その拍子に足をもつれさせて転んだ。背後まで迫っていた熊の巨体を見上げることになる。満月の光の下、太い矢が熊の額に突き立っているのが、見えた。

熊は立ち竦み、おおんおおんと絶叫を上げている。ぐらりとかしいだそれが、そのままよろよろよろめいた。尻もちをついたスグリの目の前に、どすんとスグリの頭より大きな獣の手が落ちてくる。熊は蹲り、矢の刺さった頭を月へと向けて鳴いていた。

何が起こったのだろうか、とスグリが考えるよりさきに、駆ける足音が近づいてくる。スグリの身体を引き寄せ、抱き上げる腕があることに気がついた。そのまま熊の前からスグリを攫った腕の主を、スグリは茫然と見上げている。月の光を背負ったかれの瞳もまた、まっすぐにスグリを射抜いていた。

「…」

…まただ。かれを前にすると、スグリはどうしてもその名を呼べないでいる。分かっているから。呼んだら応えてくれる、と、スグリは知ってしまっているから。

「……、」

一言も口をきけないスグリを抱えたまま、かれはスグリを運んでいることなど感じさせない早さで山を駆け昇った。熊の悲鳴が尾を引いているが、絶命する気配はない。かれはじぐざぐに森を走り抜けながら、おそらくはかれにしかわからない道を進んでいた。

シルヴァだった。かれは来てくれた。スグリのことを、連れ戻すために。それが結果としてスグリの命を掬い、そしてスグリにもう一度かれの名を呼べる機会を与えてくれた。さっき死ぬほど後悔したことを、やり直せる機会をくれた。なのにスグリの咽喉は、いろいろなもので詰まってしまっている。もういちどかれを呼べるという事実が、嬉しさと後ろめたさといろいろなものがまぜこぜになってスグリの唇を噤ませていた。

「スグリ」

そんなふうにスグリが葛藤をしていたら、ふいにシルヴァがスグリに視線を落とす。そしてかれは、名を呼ぶのだ。スグリの胸を甘く苦しく震わせる、あのやさしい声で。

その声は、ひどく雄弁に語る。言葉一つで、名を呼ぶ声ひとつで、スグリに、かれの気持ちはきちんと伝わっていた。耳朶を震わすシルヴァの声は、その瞳は、表情は、教えてくれる。それが自惚れでないと思えるくらいには、確かなものを与えてくれる。

かれがスグリを失い難く思っていること。
―――かれが、スグリのことを大切に思ってくれていること。それはいままでスグリには縁遠かった、それだった。それは確かに、スグリに与えられたことのない、与えられる訳もないと思っていた、痛いくらいの激情だった。

今まで見ようとしなかったかれの気持ちが、全部真っ直ぐ伝わってくる。最初から惜しみなく与えられてきたそれに、ようやっとスグリは気付けたような気がした。シルヴァはスグリのことを、こんなにも想ってくれていたのだ。スグリがかれを好きでいるのと、同じくらいに強く。

「……スグリ」

かれの手が、スグリの額をまさぐる。おそらくもう高熱を持っているだろうそこに表情を暗くしたシルヴァが、なにかを鋭く囁いて周囲に視線を廻らせた。立ち止って木の切り株にスグリを座らせたかれは、その前に屈みこんで飾りが沢山縫い込まれた重苦しい礼服のローブを器用に外して遠くの方に投げ捨てる。きらきらひかるあの服は、たしかに熊の恰好の目印になるかもしれない。スグリのほうも、息苦しさすら与えるあの拘束具じみた衣装を脱がせてもらったおかげですこし楽になった。

軽装になったスグリを、かれはますます強く抱いて走る。そういえばずっと前、あの満月の夜もまたこうして山を上がったっけ。今日はなにもかもよく似ている。そんな現実逃避も、いつまでも保っていられない。スグリは応えたかった。見つけられたかれの気持ちに、返事をしたかった。呼べるのだ。かれの名を、スグリは、呼ぶことができる。シルヴァはきっとそれに応えてくれる。

スグリはかれの名を、喉に詰まらせていたそれを、ようやっと吐き出すことが出来た。

「シル、ヴァ」

腕を伸ばす。手が届く。スグリはかれの首に、おずおずと抱きついた。答えるように力強く頷いてくれたかれが走る速度をゆっくりと落す。もう熊の悲鳴も聞こえない。ぼとぼとと溢れる涙が夜気に晒されてひどく冷たいことが、スグリにいまが現実だと教えてくれた。スグリは生きている。かれの名を、呼べる。それに応えてくれるシルヴァが、こんなに近くにいる。

胸を一杯にするのは、罪悪感ではなかった。後悔でもなく、そこにあったのは、ただ安堵だけ。スグリは足の先から指先まで、あれほど張り詰めていた恐怖が無くなっていくのを感じた。代わりに身体を浸すのは、覚えのある吐き気と頭痛を伴った体調不良である。瞼の裏で、頭がぐるぐる回っているような錯覚がした。だけれどこれは不味い、と思うのと、きっと大丈夫、と思う気持ちでは、素直なもので後者のほうがずっと多い。

「…シルヴァ」

ごめん。ありがとう。すきだ。全部の思いを込めて、かれの名をそっと呼ぶ。前を見据えていたかれの瞳が、腕のなかのスグリに向けられた。屈むように顔を近づけたかれのほおが、そっとスグリの涙に濡れたそこに触れる。火照って熱いくらいの体温を感じて、スグリはそろそろと息を吐いた。

もう何も考えられない。耳鳴りがひどい。かれの顔ももう定かではない。けれどスグリは、なにも怖くなかった。シルヴァがいる。もうスグリは、かれのとなりに居たい、ということを、恐れない。シルヴァはスグリを、好きでいてくれる。スグリはそして、もう、それだけでよかった。死を覚悟したあの一瞬、後悔をしてしまったから。自分に素直に生きなかったことを、かれを呼べなかったことを、あれほど後悔したから。

やり直せるというのなら、スグリは今度こそかれの名を呼びたいと思う。スグリに差し伸べてくれるシルヴァの手を、今度は自分から、掴みたいと思う。

立ち止ったシルヴァが、そうっとスグリの額に額を重ねた。かれの名を呼びかけたスグリの唇を、シルヴァが塞ぐ。なにもわからないままに、朦朧とした意識のままでスグリはそれを心地よいと思う。かれに触れられるのが、熱を分けてもらうのが、好きだ。乾いたかれの唇が離れてから、スグリはかれの顔を見ようと瞬きをした。けれどかれに触れられたことで最後の緊張の糸が――、すなわち意識が途切れたから、それは叶わない。すこしでもかれに触れていたくて、力を振り絞って伸ばした掌がたしかに、たしかにしっかりとかれの手に掴まれたのを感じたのを最後に、スグリの意識は闇に閉ざされた。









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