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クサギはスグリの腕を引いて、風のように走った。追い縋るスグリの息が切れて足がもつれると、子供のころよくしてくれたように背負ってくれる。ほかにも女を抱えた男たちが、ムラを出て門を抜け山を下るために走っている。こんな形の別れになるとはすこしも予想していなかったから、スグリは口を開くことすらできなくなっていた。なにも分かっていないくせにもうシルヴァと会えないのだ、ということだけは確信していて、それがますますスグリの口を噤ませている。

「…ムラの場所を移動したんだ。これでもうあいつらには見つからない。大丈夫だよ」

クサギはスグリの沈黙を何と勘違いしたのか、そう安心させるように教えてくれた。女の泣く声が聞こえる。…あれが婚礼の儀式だと知ったとき、彼女たちが残りたいと望んでいたと知ったとき、かれらは何を思うのだろう。門を出るときに、武器を持って追い縋ろうとするこのムラの男たちのすがたがちらほらと見えた。追い付かれはしないだろうか。森まで下りれば、きっとこちらのほうが有利である。けれどそれまでの道のりは決して短くなかった。

ふつうに下りたのであればすぐに追いつかれるだろうことは、クサギたちもわかっていたらしい。かれらはある程度歩きやすくなっている道ではなく、獣道を割り入って進んだ。寝ていた獣たちが驚いて逃げていく。満月のひかりは、問題なく道を照らした。

―――森が、騒がしい。

これのことだったのだ。スグリはまさか、ほんとうにクサギたちがシルヴァたちのムラを襲い返すだなんて夢にも思わなかった。だけれどかれらは、それをやってのけたのだ。そしてそれは成功しかけている。驚くべきことだった。

「…うわあああ!!」

前のほうで悲鳴が上がったのは、それからすぐのこと。どうして前で、と思うのと同時に、クサギによって背負われていたスグリはその理由をかれよりもはやく見つけられた。

息が詰まる。心臓が止まりそうになる。月明かりの下、スグリはしっかりと見てしまった。そこにいるものの姿は、スグリにとって死神にもひとしく見える。そこにいたのは、紛れもなく大きな熊だった。…昨日のそれと違って、生きている。

冬眠まえに食糧を求めている気の立った熊が、ろくに武装していない人間の前にいる。それが意味することは、驚くほど簡単に理解出来た。

「…!」
「クサギ、逃げて!」

スグリはクサギの背中から飛び降りると、そういって叫んだ。慌てたようにスグリを探したクサギの背中を、獣道でないほうへと押す。ここでスグリを抱えていては、いかにクサギといえどもひとたまりもないだろう。スグリを守らなければいけないことは、大きな足手まといになる。

かれを、死なすわけにはいかない。かれはカンナの夫だ。姉が恋焦がれた、ひとだ。それだったらここでスグリがかわりに死んだ方が、ずっといい。ムラに戻ってもただ花冠を作り、籠を編むだけのスグリが。…、どうせもう、シルヴァと一緒にいられないのだったら、いっそそのほうが。たしかにスグリは、そのときそう思っていた。

「スグリ!?」
「姉さんと、みんなに、伝えて。どうかしあわせにって!」
「待て、スグリ!」

―――どうしてそんなことをしたのか、すこしもわからない。あれだけ恐ろしいと思った熊のほうへ、スグリは駆け出していた。逃げまどう男たちと、その手から離れて座り込んでいたり、山の上へと駆け戻っていく女たち。ひどい惨状だった。

近くで見ると。熊は、昨日のよりは幾許かちいさいように、スグリには視えた。けれど怖い。シルヴァだって怖かったのだから、怖いに決まっている。

熊は動くスグリに興味を持ったようだ。獲物を物色していたその黒光りする瞳をスグリに向けた。それを確認して、スグリはゆっくりと後ずさる。出来るだけ人のいないほうへ。出来るだけ、山の上のほうへ。

―――こんなことになるんだったら、もっとちゃんと伝えておけばよかった。あのときシルヴァのなまえを呼べばよかった。…もう呼べない。そう考えると、頭の奥がじんとなる。

残ればよかった。シルヴァのそばに、いればよかった。あの時かれの名前を、呼べていたら。いまさらだ、ということはよく知っている。後悔ばかりだった。

シルヴァ。そっと口に出してみた。どれだけかれのことが好きだったか、自分でよくわかる。好きだった。やさしくしてくれて、ありがとう。言えなかったことばを言うだけの時間は、スグリには残されていない。熊との距離が詰まる。儀式のための重い服では、あれを避けることなんて不可能だ。

「シルヴァ」

かれの名を呼ぶ。少しだけ気が楽になる。がくがくと震える足に視線を落とした。すこしでも遠くまで、クサギ達が逃げられたらいい。そんなことを、思いながら。

天恵があった。
眼前に細い木の林がある。スグリは夢中になって、そこを潜り抜けた。熊はすこし間誤付いて、木をなぎ倒しながら追ってくる。スグリは少しでも遠くまで行けるよう、ほとんど転がるようにして走る。ここを抜けたら、あとは逃げるところもないだろう。少しずつ熊との距離が開く。

けれど、スグリの身体もまた限界だった。もう走れない。立っていられることも奇蹟にひとしかった。ここに来る前のスグリだったら、間違いなくもう気を失っている。木に縋りながらその雑木林を抜けたときにはもう、スグリは死を覚悟していた。眩暈と頭痛がひどいせいで、すでに視界もぼやけてはっきりとしない。分かるのは、ただ、じぶんのこころのことだけ。あれだけ捨ててしまったと思っていた、鍵を掛けておいたと思っていた、こころの奥の本当の気持ちだけ。

「…シルヴァ」

かれをよぶ。
身を浸す後悔に、そっとスグリが全てを委ねる。自分のしあわせを諦めたスグリが悪い。そんなこと、スグリが一番知っていた。獣の息遣いが聞こえる。目を閉じて、スグリはただ事務的に前に進む足がもつれるその時を待つ。

「…ありがと。」

けれどスグリの口は最後まで、かれへの別れの言葉を告げることはなかった。










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