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それから凪は日々、郁人を探した。もっとも近しい身分のかれならもしかしたら、友達になってくれるのではと思って。無論同じクラスに郁人は籍を置いていたが、かれは授業に出ていなかった。病気やけがの類ではないらしい。靴箱に靴はあったから、学校のどこかにいるはずなのに、数日の間凪は郁人を探すことが出来なかったのだ。

凪を取り巻く人々をすり抜け、凪は必死にかれを探し続けた。しかしかれはどこにもいなかった。屋上にも、どの教室にも、上の学年のかれの兄も、郁人の居場所をしらなかった。

数日間広い学校を走り続けてくたびれた凪が迷い込んだのは、学校の外れに位置する巨大な図書館である。図書館、と名はついているものの実質は巨大な蔵書庫であった。古今東西この大陸で出版された本が何でも詰め込まれている、倉庫のような棟である。学校にあるこぎれいな図書室ではない、埃にまみれ、蜘蛛の巣が張り、管理人もいない学校でも忘れ去られているような場所だった。現に今は誰も利用していないようで、入口までの道は野草や野花で覆われてしまっている。

「…」

しかし凪のこころは踊った。見ず知らずの大公の息子を探すよりも、この図書館を探検してみたくなったのだ。凪は年相応の子供である。帝王学を学び様々な知識を付けてもなお、かれはまだたった13才の子供だった。

「お、ここにだれかが来るなんて珍しいな」

恐る恐る図書館に足を踏み入れた凪は見た。
山のように積み重なった本の山、吹き抜けを取り囲むようにしてずらりと並んだ本棚、そのはるか上にある、巨大な天窓から降り注ぐ陽光の下にあるもの。

それは穏やかな日差しをやわらかく受けとめてひかる、亜麻色の髪だった。

「…っ、」

思わず後ずさった凪の足元で、本の山が崩れる。その音に驚いて尻もちをついた凪のまえに、亜麻色の生き物が歩み寄ってきた。かれは埃だらけの制服に身を包み、それから凪の頭のてっぺんからつま先までみてから、真っ直ぐに手を差し伸べてきたのである。

「大丈夫か?」

かれの亜麻色の瞳を見たときに、凪は呼吸が出来なくなった。頭に埃はくっついていたしこのただ広い空間にひとりでいたかれは怪しかったけれど、かれのその瞳は、凪が生まれてから見てきたすべてのものよりも美しく尊いものに、凪の瞳には見えたからである。

「…大丈夫、ありがとう」

その手を取って立ち上がると、かれはちいさく笑った。それから制服の埃を払っている凪を置いてさっさと先ほどまで座っていた椅子に戻ってしまう。かれを見てからようやく凪は、かれが自分が「皇子殿下」であることを知らないと悟った。そう知ってから、凪は途端に名乗るのが怖くなった。だから、凪はそれ以上何かを喋るのを、やめた。

「座る?」

そして亜麻色の生き物もまた、凪に名を尋ねることをしなかった。黙って椅子のとなりを叩き、黙って本を呼んでいた。ひとつ頷きそこに座った凪は、ただただそこで沈黙の時を過ごしたのである。

その沈黙は、不快ではなかった。かれの指が頁を捲る音、その亜麻色の睫毛が瞬くところ、そしてどんどん積み重なっていくかれの既読書の山。どれを見ていてもこころは穏やかで、凪は胸がいっぱいになったのだ。

それから凪は、須王院郁人を探すのをやめた。

学校に行くことが楽しみになった。授業に出席しないことに渋い顔をした執事も、いつになく楽しそうな顔をした皇子に何も言えぬままだったし、父親に至ってはにこにこと笑っているだけだったのをよく覚えている。かれらには無論あの図書棟と亜麻色の生き物のことは秘密だったけれど。

そしてあの亜麻色の生き物は、いつ凪が図書館を訪れてもそこにいた。昼食は持参をしているようで、無言のままに分け与えられたマフィンがたいへん美味しいのを、三日目に凪はしった。

「…本、好き?」

そしてマフィンの礼も言えぬままに凪が口に出来たのは、そんな平凡な一言である。それは初日ぶりの会話であったけれど、口にしてすぐに凪は失敗したなあと思ったものだ。どう考えても好きだろう、と思う。かれは本がすきだ。特にミステリと、そして、カイン冒険譚と銘打たれたシリーズ。積み重なっていく本を見ていたら、わかる。
時々凪も本を読んでみるようになったが、ここに置いてある本は凪が生まれるずっとずっと前に書かれたものもあり、なによりその蔵書数は一生かかっても読み切れないことが容易に分かる量であった。そんなところに好き好んでいるのだから、かれが本を嫌いなわけが、ない。

「好き。ここにある本は、読んだことないのばかりだし」

しかし莫迦げた問いに気を害した様子もなく、少年はマフィンを咀嚼しながら淡々と答えたものだ。それをきっかけに、凪はかれと会話をするようになった。それはここが学校だとはとんと思えないような、たとえば今日の雲は魚の形をしているだとか、明日は星が降るとか、好きな料理の話だったりしたけれど、凪はとてもしあわせだった。

友達が出来たような、そんな気がしたからだ。凪はかれのことを好きな料理と色と本の種類以外何も知らないし、少年も凪のことを辛い料理が好きだとか昨日大きな蜘蛛に食べられる夢を見たとかそんなことしか知らないが、それでも友達だと、そう思えた。

かれが積みあげる本の山が高くなり、凪が背伸びをしても積み重ねられない高さになり、それが二つになり、三つになったころ、凪はふいにかれの名前を知りたくなった。それと同時に、かれになら皇子だということを知られてもいいような、そんな気がしていた。

「…訊いても良い?」

凪が切り出したのは、かれとのふしぎな邂逅が十日ばかりも続いたのちだったように記憶している。少年は亜麻色の瞳を古めかしい頁から上げると、凪の目をじっと見た。かれは良く喋ったが、本を読んでいるときはとことん静かである。こちらから声をかけないかぎり何一つ言葉を発せず、ただひたすらに活字を追っていた。

「なにを?」
「名前、」

そう吐き出した声は震えていた。もしこれで、かれが、凪の名前を聞いて態度を変えたらたぶん、自分はひどく落ち込むのだろう。立ち直れないかもしれないのも目に見えている。するとかすかに逡巡した様子をみせ、少年はちいさく笑った。

「そういえば、自己紹介がまだだったな」

それが、まるで出会って数分の相手に言っているような軽さだったので。思わず凪は笑いを浮かべてしまっていた。凪の不安もなにもかも、その一言が遠ざけてしまう。かれの笑みと心地のよい響きの声には、どうやら凪のこころの鎧を剥がす効果があるらしかった。

「おれは郁人。須王院郁人」

凪が手に持っていた本が滑り落ち、小気味のよい音が図書館に響き渡る。驚いたように目を丸くした郁人のまえではくはくと溺れた金魚(金魚は溺れないか、と郁人は自分で自分に即座に突っ込みをいれた)のように口を開け閉めする少年が、穴があくほど郁人の顔を見つめている。だいじょうぶか?と声を掛けようとしたところで、凪は勢いよく郁人の肩を掴んだ。

「いくと」

まるでパズルのピースが嵌まったような音が頭のなかで響く。それから凪は、何度も何度もかれの名を呼び続けた。自分の名を名乗る猶予さえ持たず、ただ、ただひたすらにその名前を呼び続ける。いつしかぼろぼろと紫水晶の瞳から涙が零れていたが、郁人はそれを見ても黙ってその頭を撫でてやるだけだ。

「郁人。きみが、郁人…」
「そうだよ。きみは」

何故なら郁人は、運よく泣き虫の扱いに慣れ切っていた。プロ級だと自負するほどである。騎士学校で剣を捏ね繰り回している洸が盛大にくしゃみをしたがそれを郁人が知るよしはない。

「凪。呼んでくれ、俺の名を」

そしてわななくかれの唇が吐き出した名に、僅かに記憶に皇子のことは引っかかっていた郁人が寸の間驚いた顔をする。身を竦ませた凪がなにかを言う前に、はあ、と郁人は吐息を吐き出した。怖がっているような顔をして顔を上げた凪の目から、新しい涙の粒が溢れることがないと知った安堵のため息だ。このまま泣きやまなかったらどうしようかと思ったとか、理由はそんなところである。なんとなくそれは伝わったようで、凪はじっと郁人の目を見返しているだけだった。その唇がかれの名を吐きだすのを、とびきりのお菓子を前にしたこどものような顔で待っている。

「うん、よろしく、凪」

…それが、凪と郁人の出会いだった。




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