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熊は年長者が解体をして、皆で儀式の日に食べるのだという。重傷者も命は取り留めた。今年は死者ひとりもなくすんでよかった、とアザミがいっていた、というのを、わざわざアカネがスグリに言いに来てくれた。彼女もまた血まみれ汗まみれで、今日はゆっくり休んでね、と言って別れている。

まだ高揚感と言い知れぬ恐怖感が抜けないまま、スグリは痩身を暖かい湯に浸してじっとしていた。浴槽のそとでは、シルヴァが紅い血を身体から洗い流そうと苦心している。スグリのとちがって獣の血を、しかも最も間近で雨のように浴びたシルヴァの身体はひどいものだった。結局あのあとふらふら眩暈で倒れかけたスグリをほとんど抱きかかえるようにして連れて帰ってきてくれたシルヴァにあれよあれよというあいだにさきに風呂に投げ込まれて、それからなんとなくシルヴァが身体を清めるのを待っていたわけである。

石でできた床を流れていく、湯と血の混ざった液体。かれの身体には古傷がいくつも見受けられた。比較的あたらしいのが無くて安心して、それにしてもよく無傷だったなと感心というか、感動にもちかい気持ちでそのきれいに筋肉のついた肢体を見る。なんとか手足についた血を流したシルヴァが長い髪を解いた。深紅の髪から流れ落ちるのもまた、赤の混ざった湯である。怖くはなかったのだろうか。…怖いに決まっている。あんなに怪我人が出たのだ。放っておくわけにも、いかなかったはずである。

「スグリ」

恥ずかしそうに、シルヴァがスグリのことを呼ぶ。まじまじと見つめてしまっていたことに気付いて慌てて顔を背けた。ぶくぶくと湯に沈んで、ちらりと湯けむりのむこうの深紅を眺める。

シルヴァは、変わらずスグリを大事に扱ってくれた。スグリの身体についた血なんて獣ではなく人のものなのだから、大したことはない。あとでだって全然よかったのに、沸いた風呂にさきに入れられたのはスグリだった。血まみれの服はどうしようか、捨ててしまわないとだめだろうか、なんて考えながら、スグリは空気を出し入れするためについている小さな窓のそとの切り取られた空に目線をやる。

−−−狩りのあとは、気持ちが荒ぶるものだと、スグリは思っていた。血の匂い、死の匂いは人を凶暴にさせる。命の獲り合いをしたあと平静を保てるほうが、おかしいのだ。…それともシルヴァは、こころのうちではやはりどこか不安を感じているのだろうか。だとすれば、どうにかそれをやわらげられたらいいな、と思う。

「シルヴァ…」

こちらを向いたシルヴァのほおに、そっと手を伸ばしてみた。桶を脇に置いたシルヴァがスグリが触れられるように身体を乗り出してくれる。かれのほおは、あたたかかった。確かめるように触れた後、スグリは言葉が通じないもどかしさを噛みしめながら、ゆっくりかれの腕に触れる。傷付いてはいないか、もう一度確かめるようにして。

ふいにかれの表情が綻んだ。わらってくれた、とスグリはほっとする。よかった。いつものシルヴァだ。それから濡れた手にぐしゃぐしゃ髪を掻き混ぜられて、スグリは浴槽に身体を沈める。

こうしてそばでかれを感じるのも、明日が最後なのだ。儀式の夜のあとどのくらいで女たちがムラに戻るのかはわからなかったが、妻にならない女たちと長く暮らす事も出来まい。それがつまり、スグリがここを離れる日ということになる。

想像して、すぐにスグリはそれを止めた。考えてもしようがないなら、考えないほうがいい。考えて、不安になって、辛くなるのは、いやだ。スグリはいつも、いやなことばかり考えてしまう。…森のムラにいたころにくらべれば、その癖はなりを潜めていたけれど。

湯けむりのむこうのかれの姿を見ているのがつらくて、スグリはさきに浴槽から出た。片言でご飯をつくる、といったつもりだけれど、シルヴァに伝わったかどうかはわからない。困惑げになにか声をかけられたけど、スグリは構わずさきに風呂を上がる。

夕食だけは、いつもシルヴァが作ってくれていた。昼や朝はたまにスグリが作ることもあったけれど、晩になるとシルヴァがやってくれる。待っていて、とスグリは居間に座らされているのだ。かれの作る料理はかなり豪快な味付けだけれど、美味しいから問題はない。だけれど今日くらいは、シルヴァも疲れているだろうから、スグリが作ってやりたかった。

スグリたちのムラの食事はあまり肉を使わないから、シルヴァには物足りないかもしれない。よくカンナが作っているのを手伝ったな、なんて懐かしく思いながら、スグリは食糧庫から適当に食材を見繕って料理を開始した。シルヴァの口に合うようにいろいろ試行錯誤をしていたらスープが大変なことになったり肉がちょっと焦げたり、とかなり慌てふためいた様子でいるスグリを、すこし経って風呂から上がったシルヴァが不安そうに眺めている。とりあえずかれを居間に押し戻して、スグリは成功とは言い難い料理をどうしようかと少し悩んだ。

―――一緒にとる夕食は、最後になるのかもしれなかった。儀式の晩はきっとゆっくりご飯を食べる暇なんてない。スグリがシルヴァに作ってやれるのは、きっとこれが最後なのだ。もういちど作り直したい、とは思うけれどこれ以上シルヴァを待たせるのも悪い。仕方なく居間に料理を運ぶと、シルヴァが目元を綻ばせて笑う。

いつもならこんなふうにはならない、とか、スープの味が濃すぎたかもしれない、とか、言いたいことは沢山あった。言葉が自由だったならいろいろ言いわけが出来たのにスグリにはそれが出来なくて、だから黙って視線を机に落とす。

木で出来たスプーンで些か味のくどい炒め物を掬いながら、スグリはそっとシルヴァを窺った。目が合う。…かれは目を細めて、それは優しく笑ってくれた。やさしいなあ、と思いながら、スグリはゆっくりと顔を上げた。かれは、美味しいよ、とでもいうふうに、にこにこ笑っている。胸が一杯になって、スグリは笑い返すのに精いっぱいだった。









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