21
―――シルヴァは、スグリをそばに置いておくことを望んでいる。
それを知れただけで、スグリはよかった。迷惑でない、というだけで、うれしかった。シルヴァはやさしいから…、どうしてなのかはしらないけれど、スグリにとてもよくしてくれるから、だから負担になるのは、いやだった。
「…うん」
ひとつ頷いて、スグリはそろそろと強張った肩の力を抜く。ほっとしたように息を吐いてシルヴァがスグリの頭をくしゃりと撫でた。それだけで胸の奥が暖かくくすぐったくなって、スグリは跳ねる心臓を服の上から押さえつけてシルヴァに訝しがられないぐらいの距離をとってその背を追う。一緒にいてくるしいのも、もどかしいのも、慣れなければいけないのに、日に日にこのもどかしさだけは増すばかりだった。
抱えきれなくなった思いは。
いったいどうなってしまうのだろうか。もしこの、シルヴァのそばにいたい、かれをすきだ、という思いを、胸のうちにしまっておけなくなってしまったら。スグリはまたみっともなく取り乱して、シルヴァを困らせてしまわないだろうか。さいしょはちっとも感じなかった不安は、そんな形になってスグリに付きまとっている。
たとえ、シルヴァがスグリを傍に置くことを望んでいるにしても、だ。それでもスグリのこのもやもやした感覚は収まらないだろう。シルヴァがこのムラの若い男たちのリーダー格であることは、なんとなくスグリもわかっている。まわりの若い男たちとスグリのムラの女たちも、ぎこちなくであるがなんとかこころを通わせつつあることも。まだ新婚早々連れて来られた女はかたくななままだったけれど、未婚の娘などはアザミの家で恥ずかしそうに恋心を告白したりしている。…スグリはとても、それを微笑ましく思う。同時に、うらやましい、とも。
「スグリ」
なんてことを考えながらぼうっとしていたら、低く柔らかい声に名を呼ばれた。飛びあがってシルヴァのほうを向けば、居間の大きなテーブルについたシルヴァがスグリを待っているようだ。慌ててそっちに寄って、シルヴァの向かいに座る。きのうスグリが編んだ花籠が置かれているテーブルの木目を目線でなぞりながら、スグリは何事かと身体を固くした。
先ほどの話は、シルヴァがそれを払拭してくれたにも関わらず、スグリの胸の深くに根付いている。もし、もしも、ムラに戻ることになったら。スグリはそれを、きちんと受けとめられるだろうか。もう外へ行くこともほとんどなく、ただひたすら与えられた花で冠をつくり、かごを編み、そして姉すらいない家を取り仕切っていくことができるだろうか。とりとめのない将来への不安が、波のように寄せては返す。
スグリ。そうまた優しく、労わるような声音がスグリを呼ぶ。意を決して顔を上げ、スグリはじっとシルヴァの鳶色の瞳を見つめた。かれがスグリが分かるような単語を一つずつ切り離し、噛んで含ますようになにかを伝えてくれる。
アカネやアザミに習ったいくつかの単語が含まれていたから、なんとなくスグリもかれが言わんとするところを理解できた。
――今夜。集会所に、集まる。それに、行く。
というところであろう。三度ほど聞いてなんとか理解をして、スグリは何度も頷いた。もとよりかれがそうするのなら、スグリに拒否するつもりなどない。きっと森のムラの話をするのだ――、とスグリは勝手に思っていた。
ほっとしたように笑ったシルヴァが、神妙に座っていた椅子から立ち上がってスグリを待った。その背に寄ってかれについて行きながら、スグリはじっとその背中を見る。最初にこのムラに来た時に背負われたそこは、やはり大きくスグリには視えた。
「…」
「……」
向かった先は寝室だった。外套やなんかがしまってある箪笥を開けて、シルヴァがなにかを探している。その中にあったのがなにやら見覚えのあるものだったから、スグリは思わずそれに手を伸ばしていた。
「…?」
真っ白いローブ。花嫁が着るそれである。あの満月の晩、スグリがカンナをこのムラの男たちから守るために纏ったものだった。そういえば意識を失って目覚めたときにはすでに着ていなかったのを思い出す。シルヴァはきちんとしまっておいてくれたらしい。
「……ねえさん」
思わず、ぎゅ、とローブを抱きしめた。姉の匂いがする。…姉は、しあわせでいるだろうか。恋焦がれた男に嫁ぎ、しあわせでいられるだろうか。そのしあわせに弟の不在が水を差していなければいいと思う。…姉はやさしいひとだから、きっとスグリが身代わりに攫われたことを、きっと気に病んでいる。
…そう、思えば。スグリは戻るべきなのかもしれない。今まで同じ年頃の娘たちが次々と嫁ぐなか、母の居ない家庭を切り盛りしてくれたあの姉のしあわせのためなら、スグリはじぶんのしあわせなど、捨ててしまうべきなのかもしれない。
そうだ、スグリがいなければ、妹たちはどうしているのだろう。父は。いかにませてしっかりしているとはいえ、スグリの下の妹はアカネとそう変わらない年なのだ。一番したの双子と父をひとりで世話出来るわけもない。姉だろうか。それともクサギが、婚礼の前にいっていたとおり、まとめて世話をしてくれているのだろうか。
いままで、考えないようにしていた。スグリはつらくなかったから。さみしくなかったし、こわくなかったから。…しあわせ、だったから。残してきた場所のことは、気にならなかった。けれど、いまこのかすかに懐かしい匂いがする婚礼のローブを前にして思い出さないほど、スグリは家族が、生まれ育ったムラがいやではない。
自分がしあわせを、シルヴァのそばにいることを諦めるかわりに、姉やクサギの負担が軽減されるのなら。あの家にスグリが戻ることで、姉が安心して幸福になれるのだったら。
「…スグリ」
そっと背中に手がかかる。あたたかい。ローブに顔を埋め、スグリはしばらく黙っていた。
――たとえシルヴァがスグリを傍に置いてもいいと思ってくれていても。たとえスグリが、それを望まなくても。
俺はあのムラに帰るべきなのだ、と、頭のどこかで漠然と思いながら。