20
――森が騒がしい。
それはどういう意味か、とスグリはずっと考えていた。アカネの髪を結えてやったり、人形遊びに付き合ってやったり糸を繰り合わせて一枚の布にする方法を教えたりしている間中、そのアカネのことばが耳にこびり付いている。結局あの重苦しい雰囲気はすぐに払拭され、シルヴァとアザミはなにか明るい話題をしているらしいことが笑い声がしたせいでわかったのだけれど。
森。森といえばやはり、スグリたちのムラがあるほうの森だろう。そこが騒がしいというのだ。気にならないわけもなかった。一本の糸を輪にしたもので自在に形をつくる遊びをアカネに教えてやりながら、スグリは上の空をする。…すっかり忘れてしまいそうになるけれど、本来スグリはそのムラに居たはずなのだ。かれとあの日出会わなければ、いつまでもあのムラで花を編んで生きていたのだろう。どこか現実味なく、そう思う。
「わかった、橋!」
「そうだよ。ここをこうして、こっちを引っ張って…」
ちいさな手指に紐を引っ掛けてやり、それを複雑に指を抜いたりなんなりをして、最後にぎゅっと引っ張る。先ほどスグリの手に現れたのと同じ綾が彼女の手のなかに現れたのを見て、スグリは微笑みを浮かべた。
「できた!」
「すごいすごい」
手を叩いて褒めてやれば、アカネは頬を上気させてわらう。それに嬉しくなって、スグリはちいさく微笑んだ。彼女といることは、スグリがこのムラでシルヴァのそば以外にも居場所を見つけているようで、うれしい。…シルヴァのそばにおいて置かれる理由が分からない分、アカネのそばは、彼女の遊び相手、という明確な理由があるから、安心していられた。
「スグリ」
ふいに柔らかい声がスグリを呼ぶ。はっとして振り向いて、スグリはそこに立っているアザミを認めて頭を下げた。彼女は少し皺の浮いた頬にやわらかい笑みを浮かべて、スグリとアカネのそばまで寄ってくる。すこし後ろからシルヴァが続くのが見えた。
「いつもアカネと遊んでくれてありがとうね」
「とんでもないです。俺もアカネと遊ぶの、楽しいですから」
そうやっていえば、となりでアカネがうれしそうに笑った。そろそろ帰るみたいだ、とシルヴァのようすから判断して、スグリはアカネにまたね、といって立ち上がる。ちいさな紅葉みたいな手を振って、アカネは笑って見送ってくれた。その肩に手をおいたアザミが最後にシルヴァとなにか言葉を交わすのをまって、スグリはシルヴァの背中に続く。
「シルヴァ」
森が、騒がしい。先ほどの言葉がまだ残っているスグリは、ちょっと心配になってシルヴァを見上げる。もし、もしかして森のムラから女たちを奪還するためにクサギ達が攻めてきたならば、シルヴァはどうするのだろう。戦うのだろうか。
…けれど、スグリは男だ。このムラにいても、彼らが求めている役目は果たせない。スグリだって、何でこのムラにいるのかわかっていないのだ。
だったら大人しくムラに戻されても、ぜんぜんおかしくないわけである。
「…」
なにがおかしい、といえば、それをスグリがいやがっていることだった。ムラに戻れば妹たちがいる。病気の父がいる。かれらに会いたい、とは思う。けれどまたあのムラで、ただひたすら籠を編み花を紡ぐ、そんな日々に戻るのは、こわい。なにがこわいのだろう。単調な日々が、だろうか。それとも、シルヴァがいない日々が、なのだろうか。
「スグリ?」
訝しげな顔をしたシルヴァが、アザミの家を出てすぐに声をかけてくれた。ちょっと躊躇ってから、スグリはとおく塀の向こうに見えるうっそうと茂った森を指差す。シルヴァの表情が曇るのがわかった。…やはり、森が騒がしいというのは本当なのだろう。
だとしたら。
「…」
スグリは自分を指して、それから森のほうを指差した。首を傾げる。―――戻ることに、なるのだろうか。そんなふうなことを、聞いてみたつもりだった。するとシルヴァは、ふいに唇を引き結ぶ。答えをくれないで、じっと押し黙ってしまった。ぎゅ、と手を掴まれて家へ戻る足取りが早くなる。小走りになってそれを追いながら、スグリはすこし戸惑った。
「し、シルヴァ?」
…それを歓迎しているようには、みえない。それにちょっとホッとしながら、スグリはならどうなるんだろう、と首を傾げる。シルヴァたちのムラはつよい。だからたぶん、クサギたちが攻めてきてもたちどころに追い返してしまうだろう。
もともと、戻ろうとおもえばいつだって戻れたのだ。シルヴァはスグリを見張っているわけではない。狩りにいっているあいだ、ムラのそとに出て森へ駆け戻ろうと思えば、容易く出来た。現に女たちがそんな計画を立てているのを、スグリも聞いたことがある。けれどけっきょく、それを実行に移した女たちは野生の獣に襲われて、すんでのところで彼女らを攫ってきた男に助けられたと聞いていた。それがこころを開くきっかけになったのだから皮肉なものである。
「スグリ」
ふっと腕の力を緩めたシルヴァが、スグリのてのひらを掴む。それからそれをつかってスグリの胸を指差して、つぎにかれが指し示したのは、おおきなシルヴァのあの家だった。