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「真さん、おいで」

ドアの向こうから声がした。いつまでもこうしているわけにもいかないことは分かっていたから、真はのろのろ立ち上がって先ほど前島が消えたドアを開ける。存外に頭痛はしなかった。前島が選んだあの酒はたぶん、そういう酒なのだろう。

広い居間にはカウンタ式のオープンキッチンがあり、ひろい窓はうららかな日差しを存分に引き入れていた。時刻は昼前である。ガラステーブルには湯気を立てるマグがふたつ置かれていて、その手前にある見覚えのある黒いソファには前島が座っていた。

「…」
「…、真さん、怒ってる?」

無言のままの真にそう尋ねた前島には答えず、テーブルをはさんで対角線上に真は腰を下ろした。ブラックのコーヒーに口をつける。インスタントではなさそうだった。

「…、何であんなことしたんだ」

細波を立てるコーヒーを見つめながら、真はぽつりとそう零した。真の人生は、とかくこの男のような色男にかき乱されている気がする。果ては真自身がターゲットになったわけだ。

「真さんさ、すごい親切にしてくれたでしょ。俺が入社してすぐ」
「…は?」

突拍子もない答えに、思わず真はびくりと顔を上げた。入社してすぐ、といえば、また目の前に現れた非の打ちどころのない色男に真が辟易していたころだろう。やさしく、といわれても、真はかれに上司としてやるべきことをした覚えしかない。

「真さんがなんとなく俺のこと苦手っぽいのはわかってたけど。…俺同性に好かれることってあんまりないから」

嫌味か!と平時なら即座に切り返していたであろう言葉にも巧く反応できないままに、真はきょとんと前島の整った顔を見つめた。コーヒーを淹れる間に身の周りを整えたのか、寝起きのあのぞくっとしてしまうような感じはもう覚えない。少し長い襟足をひとつに束ねた前島は、たぶんかれのものだろう部屋着をきて寝癖もつき放題な真が恥ずかしくなるくらいにはいつも通りだった。

「前の会社は足の引っ張り合いばっかりだったからさ。親切にしてくれるだけでうれしかったんだよ」

プレゼンの前の日に遅くまで付き合ってくれたり、分からない仕事を逐一教えてくれたり、と前島はつらつらと「そういやそんなこともあったな」というふうな出来ごとを連ねた。それは無論、真が上司にやってもらってきたことであるし、それが当然だと思っていたことであった。そう反論しようとすると、ちょっと遠い目をしていた前島がふたたびその視線の先に真を据えた。あと顔が好み、と反論のしようがないことを言われて思わず言葉に詰まった真を前にして、前島は笑う。くしゃっと音を立てるような、やわらかい笑顔だった。

「気付いたら好きになってたんだよね。でもほら、あんた彼女いたから」

あっさりと自分への好意を全肯定されて、あっけにとられて真は黙り込んだ。

思い出す。何で、とゆうべ酔っ払いが前島に尋ねると、そのたびになにかとてもいとしいものを慈しむみたいな顔でこの色男は真の背中をぎゅっと抱き締めたのだ。あのどこかふわっとなってしまうようないい匂いがこちらの身体にまでしみついてしまいそうなくらい。

…いい、匂いがする。
ふいに自分が着ている服のことまで意識してしまい、真は言葉を切って黙りこんだ。それを何と思ったのか、前島はソファから立ち上がって、真のとなりまで寄ってくる。なんとなく捕食される小動物のような気分になって、真は肩をちいさくすぼめた。

「…俺はずっと、こうなりたいと思ってたよ」

子供みたいにその肩に、前島が頭を擦り寄せてきた。いい匂いがする、とまた真は思う。香水かと思っていたけれどそうじゃないんだろうか、なんてどこかで考えながら、頭の芯が痺れたように真は動けない。

ひとつ、真になくてかれやかれみたいな人間にあるものが見つかった。押しの強さだ。女っていうのは、きっと、こういうのに弱いんだ。…思いながら、真も完全に前島のペースに巻き込まれている。

「…っ、」

なんだこの甘ったるい雰囲気は。このままじゃ完全に流されてあたらしい扉を開けてしまうことになる。思いいたって、真はぐいっと前島の身体を押しのけた。

「ち、ちょっと甘い言葉吐いたらすぐ自分に惚れるかと思ったら、大間違いだからな!」

こうして歴代の彼女たちがあっさり真を捨てたのかと思うと、ちょっと怒りすら湧いてくる。前島から距離を取ってすこし冷めたコーヒーをごくごく飲むと、すっと思考が明瞭になった。

「俺はそんなに簡単に…、!」

いきなり背後から抱き寄せられ、マグのなかでだいぶ減ったコーヒーが波打った。慌ててそれを机に置いて、ぎゅうぎゅうと腰に絡む腕を叩く。前島がこんなに積極的なやつだなんてしらなかったから、ちょっと驚いた。これだから色男は。

またあのふわんと甘くさわやかな匂いがする。もしかしたら自分は匂いフェチなのかもしれない、と知りたくなかったことを気付かされながら真は手足をばたつかせて抵抗をした。フローリングから前島の膝のうえに移動させられて、これは不味いと本能が警鐘を鳴らしている。

「だってあんた、今フリーじゃん」
「ふ、フリーはフリーでも…!」

欲しいのは彼女であって!と言いかけた真の額に、さらりと色男の前髪がかかる。あ、と思うよりもさきにキスをされた。ゆうべさんざんしたくせに、まだぼんやり覚えているくせに、コーヒーの味がする唇で唇をふさがれるともうだめだった。だってこいつちょううまい、と頭のなかで言い訳をして、真はこの苦手な同僚の袖を掴んで引っ張る。

いつもいつもこうだ。こいつのような色男は突然真のまえに現れて、それで真をめちゃめちゃにしてしまう。まだ見ぬけれどぜったいに前島みたいなタイプだろう彼女の浮気相手といい今回は散々だ、と思いながら真はゆっくりとまぶたを下ろした。

ん、ん、とのどの奥を鳴らすことしかできない真の後ろ髪をくしゃくしゃなでて、前島はその身体をソファの足のところにおしつける。体重をかけられて逃げられない。ほんとうに捕食されてしまいそうだこの肉食系男子め、と思いながら、頭の奥が酸欠で痺れるくらいに貪られて真はすっかりくったりしてしまった。ようやっと解放されたころには息も絶え絶えになっている。

「真さん、すき」

かぷ、と顎を噛まれた。だめだ経験値がちがう、と悟ってしまって真にはもう、せめて流されないよう僅かに残った「色男憎し」というどうしようもないところにしがみついていることしか出来ない。こいつはきっと真とは違う人種なのだ。素でこんなことを出来るなんておかしい。思いながら、真は力なくのろのろと身体を捩る。しかし逃げられない、と頭のなかでアナウンスが流れた。

「ね、俺にしときなって」
「…」

キザなやつめ。思っても口に出せないのはたぶん前島にほとんど呑み込まれかけているせいだ。これから先もずっとこいつみたいなやつに負けっぱなしなんだろうと思う。冗談じゃない。けれど、それをしんでしまいたい、とはなんとなく思わなくなっていた。

相変わらず真の平穏を掻き乱す色男の手で、何かが始まる予感がしている。





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