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やさしいいばら



「…待って」

凍ったまんまの俺の咽喉が、震える音を吐き出した。あいつの肩が跳ねあがる。俺はそれを、ぼんやりどこか夢でも見てるみたいに眺めている。

「…何」

振りかえらないその背中に、俺はのろのろと立ち上がって近寄った。たっぷり三歩は距離を取って、黄昏た光にきらきら光るその黒の髪をじっと見る。

もう俺のこころは壊れてしまった。だから、なにも怖くない。
もう俺はこいつに嫌われてしまった。いまさら、怯えることはない。

「俺のこと、好きだった?」

震える声で虚勢を張って、俺はそう尋ねる。すきだ、と言えないのは、俺がただ馬鹿だからだと思う。こいつにすきだ、といって返してもらえなかったら、きっと俺はもう生きていけない。…けれど、いまなら。いまなら全部なくしてしまうかわりに、こいつにかつてすきでいてもらえた、というその事実だけで、きっと俺は生きていける。自分を馬鹿だと罵りながら、それでも生きていける。

「…好きだったよ」

あいつの声も震えていた。俺は満足するはずだったのに、言い知れない虚無感でいっぱいになる。くるしい。息が出来ない。なんで。

「じゃあ、…」

黙れ、と俺の中の理性が必死に呼びかけている。これ以上、ばかなことをするな。こいつを傷つけるな。今度こそ本当に嫌われてしまう。やっぱりそんな特別は、いやだ。好かれたい。愛して、ほしい。

「……キス、しろよ」

震える声は、止める間もなく吐き出された。俺は求めることしかできない。強請ることしかできない。なにもしてやれないくせに。馬鹿だ。最低だ。最悪だ。

振り向いたあいつの顔は、怒っていた。俺は唇を噛んで立ちつくすしかない。殴るなら殴ってほしかった。触れてくれるなら。…軽蔑されたら。本当の本当に、もう目も合わせてくれなくなったなら。

「…、……」

包帯と消毒液のボトルが床に跳ねる。プラスチック製のボトルがころころと壁際まで転がっていく。それを目で追っていた俺の腕を、熱いくらいのてのひらが、ぐいと掴んだ。

…俺のすきな、あいつの熱だった。

「…それで、どうなるの」

痛いくらいの力で俺の腕を、――それでも律儀に怪我をしていないほうを掴んだあいつが、俺を覗きこんでそう言った。押し殺した声からは激情が垣間見えて、俺は酷いことを言っている、ともう知ってしまっていたけれど、続けることしか出来ない。

「俺のこと、すきなら、キス、出来るだろ」

―――本音をいえば。
過去形のすき、なんて、欲しくはなかった。俺はあさましいから。だから俺は、こんなところだけ器用に論点を擦りかえる。するとあいつの顔がなにかに歪み、そしてすぐに、はあ、とため息が降ってきた。呆れたんだろうか。嘆いたんだろうか。

「…好きじゃなくても、キスできるくせに」

いつになく棘のある口調で言ったあいつの真意を悟るまでに時間がかかった。…それは、もしかして、さっきのことを言っているんだろうか。俺がむりやりにこいつにキスをして、それで逃げてきた、あのきっかけのことを。

好きじゃなくても。
…そうだ。俺はまだ、何一つ言葉に出来ていない。こいつは言ってくれたのに。――それがたとえ過去形でも、好きだった、と、そう言ってくれたのに。

「―――」

もう意地を張っていられる状況じゃなかった。誤解されたまま、なにも伝わらないまま、こうやって思われたままで嫌われるのだけはいやだった。……すき、といって、きらい、と返されるよりも。

いまこの腕に触れている熱をまた失うのは、いやだった。

「……すき」

ようやく吐き出せた言葉は、驚くほど掠れている。ついでにまた涙が溢れた。こんなに取りみだすのも、こいつの前だからだってことを余すことなく伝えるためには、どうすればいいんだろう。
一度言ってしまえば。吐き出してしまえば、楽になれた。いままでずっと言えなかったことばが、堰を切ったように溢れだす。

「すき、すきだ」

すきだ。お前がすき。俺だけにして。俺だけ見てて。やさしくして。触って。もうどうでもよくなって、胸のなかに溜めこんでいたのを全部吐き出した。怖くて顔が見れないから、俺は足元に広がった真っ白い包帯を見つめている。…すっきりして、楽になった。これでもう、嫌われても、しょうがない。こんなに溜めこんでいたものをぶつけられて、嫌がられても、しようがない。

「…」

だから。キス、しろよ。もういちど、さっきと違って小さくいえば、腕を掴んでいた熱いくらいのてのひらが不意に離れた。しょうがない。諦観が俺の胸を満たす。…ぜんぶぶちまけてしまったんだから。醜いところも汚いところも、全部。

「…うん」

――けれど。
俺に与えられたのは、もう遠かった孤独じゃあなかった。そう低く答えたあいつが俺の身体を骨が軋むくらい抱きしめる。こんなに力があったのかってくらい強く。息ができなくなる。そうして酸欠に喘ぐ俺が上げた顔を、あたたかな掌がそっと包んだ。

唇が重なる。あたたかい熱が与えられる。―――キスされている。あいつに。それだけで俺の胸は、死んでしまいそうなくらいに高鳴った。触れるだけのくちづけが離れると、あのやさしい手が俺の痛みっぱなしの金の髪をくしゃくしゃ撫でる。

「…それから?」

至近距離で目があった。もう怒ってない、と俺がそっと胸を撫で下ろすそのやさしい目が、俺の言葉を促している。

「…、…」

…ほんとうにそんなものをねだっていいのだろうか、と俺はすこし戸惑った。俺には分不相応だ。けれど今言わなければ、きっとずっと言えない。言うしかない、と覚悟をして、俺は精一杯その背中にしがみつく。

「…お前の、………いちばんが、ほしい」

吐き出した言葉は震えていた。けれどあいつは、俺を拒絶したりはしなかった。そっと俺の肩に手を置いて、俺の視線を上げさせる。目が合った。―――、もう、かなしそうな顔はしていない。ちょっとだけ笑って、それから俺を抱きしめた。
ちゃんと言えた。伝えられた。

「―――、そんなの、とっくに」

あげてる。
かえってきた答えは、それだった。胸がいっぱいになる。俺ひとりじゃ抱えきれない分を、たぶんあいつが拾ってくれてる。俺は息を詰め、ゆっくりとその胸に身体を預けた。もうあいつの腕は、痛みをもたらしはしない。優しい棘は、俺を包み込むだけだった。






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