17
いつまでもショックを受けているわけにもいかず、悠里はのろのろと立ち上がる。また誰かがここに入ってきたら、次は窓際で頭を抱えてしゃがみこんでいる氷の生徒会長を目撃させてしまうことになるからだ。
この学校に入学して一年半。ふいに素の自分を見られてしまうのは、入学式のときに雅臣に見られて以来二度目だった。…一度目はまだいい。けっきょく雅臣には、自分からネタばらしをしたのだ。そのときは不思議と、躊躇いはなかった。
けれど今回は違う。…リオンは、『氷の生徒会長』の親衛隊長なのだ。単身で海外からやってきて、周りに知り合いもいないなかでかれが選んだ居場所こそが悠里の親衛隊だった。…悠里はそれを、好きにしろ、勝手にやれ、といった。ならば最後まで責任をもって『氷の生徒会長』でいなければならなかったのに。かれが選んだ『氷の生徒会長』に値するような人間でいなければ、ならなかったのに。
「…」
恋をすることは、怖い。…だれかにそれを伝えることは、もっともっと怖い。だからこそ悠里は、リオンをすごい、と思う。何を返してやれるわけでもない悠里を一途に慕い、好いてくれることを。けれど悠里のほんとうは、氷の生徒会長ではないのだ。ただマニュアルに沿い演じているだけの、道化の演目である。
好きな人が、だれかが演じている『役』でしかないと知ってしまったら。
ひとは、それをどう思うのだろう。…幼少以来一度も恋というものをしたことのない、…しないように努めてきた悠里にはわからない。ひとを好きになることは、そして関係が変わって距離が遠のいてしまうことは、今までどおりでいられなくなることは、こわい。悠里は、ずっとそう思っている。
―――妹は、知っていた。悠里がひとを好きになることを恐れる理由も、そしてそれが筋がね入りであることも、そして悠里がなによりも、それに苦しんでいることも。
だからこそきっと彼女は悠里にあのマニュアルを手渡したのだ。
好きになるのが怖いなら。好きになられることすら怖いのなら、違うひとになればいい。『氷の生徒会長』でいればいい、と。そしてこの学校に送り込んだところには彼女の私欲も透けて見えていたけれど、悠里はそれでも嬉しかった。恋をされることに慣れ、そしてひとは恋で必ずしも不幸にならないと知れた時、悠里の呪縛は解けるのかもしれなかったから。
けれど、いまはどうだろう。
たった今悠里はひとり、恋をしていた人間を不幸にしはしなかったか?悠里はそう考えて、再びずるずると壁に凭れて座り込んだ。
柊にメールを送ったまま握っていた携帯が振動したのはそのときだ。慌ててそれを開けば、かれから電話がかかってきたのだと知れる。少しだけ躊躇ってから通話ボタンを押し、悠里は携帯を耳に押し当てた。
「悠里、どこにいる!?」
「…あー、ごめん」
たしかにこんな状況下で『どうしよう』だけのメールが送られてきたら柊も心配するに違いない。大したことはない、と言い置いてから、悠里は躊躇いがちに会議室の名を上げた。わかった、すぐ行く。そういって柊が電話を切る。
―――柊も、そうだ。
かれは悠里のことを、すきだ、という。あの第二音楽室での一件以来、かれはすこしもそんな素振りを見せなかったけれど、かれが自分をたいせつに思っていてくれることくらい、悠里はよく知っている。
…悠里は、なにも応えられていない。柊のことを好きか、と問われれば、好きだ。大切だとも、思う。けれどその感情は、柊のいう好き、と違う、ということもまた、思う。
悠里の周りは、やさしすぎた。柊も雅臣も、そしてリオンも悠里に何も求めなかった。だからこそつらい。申し訳ない、と思ってしまう。こうしてきっかけさえあれば、悠里はまたそんな堂々巡りの思考の海に溺れてしまうのだ。
恋をしたら、変わると妹は悠里にいった。
恋は人を変えられる、と、いった。
恋によってこうまで頑なになった悠里のこころは、また恋によって解れるのだと、そう信じて疑わなかった。幼い日の恋で閉ざされた、生まれるべき悠里の『愛』とやらをふたたび自由に芽生えさせるために、悠里に恋の練習をさせようとした。それは妹の愛だ。悠里がゆいいつてらわずに受け取れる、家族からの愛だった。
――恋は目で見ず、心で見るのだ。
彼女が悠里に手渡した、全てのはじまりである一冊の本。そこにはこう書かれている。ぐしゃりと髪を掻き混ぜて、悠里はゆっくりと天井を見上げてため息をついた。