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幽囚アクアリウム




「暑いなー」

額の汗を手の甲で拭いながら、悠里は長く息を吐いた。空調の利いた生徒会室から一歩出ればそこは真夏の日光が降り注ぐ灼熱なわけで、夕方ながらまだまだぐらぐら視界を回転させるようなじめりとした暑さは健在である。となりの柊は肩を竦めて応じ、腕時計をちらりとみた。まだ夕食までは時間がある。かといってこの灼熱のなかにいつまでも身を置く気にはなれない。

「どっか涼みにいこうぜ、死ぬ」
「あ、そうだ。プール行こうか」

柊が提案すると、悠里は軽く頷いてそう応じた。目を丸くした柊に笑みを向け、それから特別棟の床を指さす。

「授業用じゃないやつが地下にあるんだよ。いつだかの生徒会長が自費で作ったっていう」
「…わけわからん」
「俺もだ。でも利用しない手はないだろ」

さっさと地下に向かうエレベーターに乗り込もうとした悠里の腕を、柊が引いた。もちろんかれの腕力のまえでは悠里など赤子同然なので、あっさりと身体が引き戻される。肌を舐めるような暑さのなか、掴まれた腕は信じられないくらい熱い。

「…誰か居たりしねえの?」
「しないと思うぞ?生徒会専用みたいなもんだけど、あいつら帰ったし」

だからこそ生徒会室があるこの特別棟で悠里が素を丸出しにしているわけであったのだが。柊はそれを聞いても尚、渋ったように唇を尖らせている。しかし悠里と違って暑い、というのを外に押し出していないのは何故なんだろうか。汗ひとつかいていないような気がする。多分聞けば、お前とは鍛え方が違うんだよ!とか言われると思うので黙っておくことにしよう、と悠里は思った。

しかしそれにしても、柊はこういうことが好きそうなのに。…柊はきれいな顔をゆがませて、困ったように悠里を見ているだけだ。行こう、とも、いやだ、ともいわない。

「…もしかして」

悠里がにやにやと唇をほころばせると、柊は露骨に引き攣った顔をした。そんなかれにこころよくしながら、悠里は長い人差し指を立てる。

「泳げなかったりするのか?」
「…行くぞ、悠里」

途端露骨に表情を曇らせた柊が、先ほどとうってかわって早足でエレベーターに乗り込む。その鉄の箱が開くと同時に冷たい空気が流れ込んできて、悠里はひとつ息を吐いた。涼しい。

「水着とか全部用意してあるはずだから。…そうか、あの柊がなあ」
「うるせえ。意外な欠点ってのも必要なんだよ、王道転校生には」
「へー」

ムカつく!と言いながら背中を小突かれて悠里は軽く噎せた。しかし柊にも出来ないスポーツがあるのか!とどこか感動した気持ちでいるかれのまえではその程度など障害にはならず、にやにや笑いも引っ込もうとはしない。体育の授業では隣のクラスから噂が聞こえてくるくらいに万能である柊のことだから、きっと水泳部顔負けに泳ぐと思っていたのだけれど。ちなみに悠里はスポーツは人並みにこなす。ので、あくまで『めんどくさくて体育に参加しない生徒会長』を装っているのであった。いくつかある得意分野だけは参加することにしているのだけれど、したらしたで親衛隊の諸君がきゃあきゃあと言いながら悠里にタオルを渡そうと迫ってくるのでちょっと困る。

エレベーターはすぐに地階へとついた。地下は上よりもやはり涼しく、悠里は僅かに目を細める。点検のときに立ち会ったくらいしか訪れる機会はなかったが、ここはなかなかによい避暑地であるかもしれない。

「お、やっぱり今日は誰も居ないな」

嬉しそうに目を細めた悠里の横顔を見て知らずため息をついて、柊は諾々とかれに従った。ひんやりとした空気が肌にここちよい。この氷の生徒会長もどきはどうやら泳げるらしかったから、柊は水に浮かんでその様でも眺めていようと思っていた。自慢ではないが柊は泳げない。水はきらいではないが、どうにも水を掻いて進むことに関しては生来向いていないらしいのだ。

悠里が言ったとおりわざわざ個室に区切られた更衣室には様々なサイズの水着が取りそろえられていた。もちろんバスタオルやなんかも揃っている。ちなみにもちろん化粧水や乳液のセットも置いてあったことには、ふたりで顔を見合わせたのだけれど。

「…女連れ込んでたのかー、って思えないとこが、この学園のすごいことだと思うぞ」
「…同感」

べつに更衣室わけなくたって良かったんじゃないかなあ、と悠里は思うわけだけれど、たしかに柊とかリオンにしてみれば同性しかいないはずの更衣室ってかわいそうなことになる場面なのか、と思い直して可哀そうな気持ちになった。着替え終わった衣服を入れるのにはわざわざ鍵付きのロッカーまでついている。生徒会長になってすぐワイシャツをだれかに取られてしまったことがあるので(あれはなかなかに気持ちがわるい)それはいいことなのかな、と思い直した。畳んだ服のうえにコンタクトレンズをいれたケースを置いて、悠里は更衣室を出る

「…あれ?柊」

すると既に柊の姿はない。あまりよくない視力ながらガラス戸のむこうのプールにその背中を認めて、ちょっと苦笑いしながらかれの背中を追った。25メートルプールの際にしゃがみ込んでいるかれの背中に近づいて、ちょっとした悪戯心からそのせなかを軽く押す。

「うわっ!?」

するとあっけないほど簡単に、柊はプールに落ちた。派手に立てた水しぶきが悠里の肌に触れる。その冷たさがここちよかった。ばちゃばちゃやっている柊を今度は自分がプールサイドにしゃがみ込んで眺めながら、涼しいだろ?と笑いかけることも忘れない。

「…てめ、なにしやがる!」
「あれ、水が苦手なわけじゃないのか」
「ちげえよ!ていうか苦手だったらどうするつもりだ!」
「ほら、ライオンの親は子供を谷に突き落とすって…うわっ!」

濡れた髪を振って声を上げた柊が、悠里の足首を掴んでプールに引き摺り込んだ。勢いよく水に落ちた悠里の身体を半ば抱きとめながら、柊はそのまま悠里の頭を押さえこむ。ギブ、というふうに悠里の手が柊の腕をタップするまで約十秒。

「ぶっ、な、なにすんだ!」
「やられたらやりかえすのが普通だろ!」
「言ったな!」

思いっきり悠里にのしかかられて、柊の身体はぶくぶくとプールに沈んだ。もちろん泳げない柊にとって潜水は苦痛でしかなく、すぐにばたばたと暴れ出す。にやにや笑いながらそれを眺めていたら、今度は水中で足払いをされた。いっしょになって沈めば柊がしょうがねえやつ、とでも言いたげな笑顔をしているのが見える。

つられて笑い返せば柊がちょっとびっくりした顔をして急に浮上した。ゆっくりと床を蹴ってそのまま悠里が泳ぎ出すと、それを見送ってほっとしたように胸を撫で下ろす。

そういえばここはプールでふたりきりで、おまけに柊は悠里のことが好きなのだ。いまさらそれを思い出して、柊はぐしゃりと濡れた髪を掻き混ぜる。決して特別早いわけではないけれどゆるやかなクロールのフォームは整っていて、それをなんとなく眺めながら柊はちょっと苦笑いした。とたんに暑さに感謝するなんて、自分も現金なやつだと思いながら。



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